BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131201 フォースド・エンタテインメント、リミニ・プロトコル、宮沢章夫

 

おそらくF/T期間中で最もハードな1日だった。

 

まず賛否両論の物議を醸しているフォースド・エンタテインメント『嵐がやってくる!』。様々な物語が途中で中断され、横滑りしていく中で、「死や老いにまつわる話」が出た途端、女が激昂する……。こういった感情の起伏が時として大きくある舞台なんだけど、そのあたかも「今まさにそのように起きている」かのような緊張感が、「字幕」の存在によってほとんど失われてしまったのでは?

 

 

 

つづいてリミニ・プロトコル『100%トーキョー』。自分はこの作品に対してどういう態度をとっていいのかよく分からない。どうも混乱してしまった、というのが正直な最初の感想で、それはこの作品が、観る人たちの何かを映し出す「鏡」として機能するためではないかと思った。わたしの場合、去年あたりからはっきりとそう感じて、ついには引っ越してしまったほどの「東京への冷めた距離感」が如実に見えてしまう機会となり、ラストの「東京音頭」はまるで皮肉に満ちたものとして聞こえたのだった。

 

この作品は「東京」の姿を「統計」という手法によって可視化している。しかし「1%」にも満たなかったり、あるいはその基準として取り上げられないがゆえに、この舞台に登場するチャンスを奪われている極小のマイノリティたちも存在する。例えば同じF/TでもPortBの『東京ヘテロトピア』で触れられるような外国人の存在はほとんどこの舞台には登場しない。もちろんこの作品の狙いは「都市の多様性」を浮かびあがらせることだろうから、そうした基準は設定されているのだが、東京ではごくごく少数の人しかこの舞台に登場することができない。そして実は東京に眠っているはずのアジア的な多様性はほとんど捨象されてしまうのである。他の都市でこの作品をつくったらまたずいぶんと様相が異なるだろう。

 

ある部分に「光」が当てられると、ある部分は「陰」となる。この舞台にあがっているのは、今はある程度の健康を保持している元気な人々であり、いわゆる知的障害も持たず、舞台芸術というものに対して一定の理解を示すことのできる人々……ということになる。「光」を可視化することでむしろ「陰」を不可視化してしまうという事実を、もちろん手練れのリミニ・プロトコルが知らないわけもなく、だからこそ時折、不穏な質問を混ぜてくる。闘病、自殺、投獄……。だが、そうしたある種のダークサイドへの想像力が、いったいどの程度観客の中に喚起されていくのかというと……隣の席で無邪気に笑っているおじさんとかを見ていると、暗澹たる気持ちにならざるをえなかった。わたしは。

 

そう、この無邪気さをどう受け止めればいいのか……。笑いは頻繁に起こるし、愛らしい子供たちの登場は、舞台上や観客席にいる人々の無邪気さを喚起していく。お茶目だし、キュートだとも思う。おじさんの笑いを責めることもできないのだろう。だけどそれらは、ここで描かれている「東京」というフィクションを、どこか多幸感に満ちた楽園として映し出してしまっているのではないだろうか。正直に言うと、わたしはここで描かれている「東京」にほとんど興味が持てなかった。それはどちらかというと、わたしがそこから去りたいと思うような場所だった。

 

ただこの作品が何かしらの感動のようなものをわたしに引き起こしたのもまた事実で、そこが混乱の原因になっている。単純に、100人の人間が舞台のうえを右往左往している姿というのは見ていて面白い。ともあれ、この舞台にあがることを引き受けた人たちに拍手を送りたい。セバスチャン・ブロイの当パンの文章にも感銘を受けた。

 

 

 

宮沢章夫『光のない。(プロローグ?)』。これまた感想を述べるのがとても難しい……。今回のF/Tの中で最も感想を語ることが困難な演目ではないだろうか。というのは、単純な構図を適用して簡潔に理解する=切り捨てる、といったことができないようなイメージに満ちていると感じたから。不思議な表面張力があるというか。

 

個人的にはイェリネクのあの「上演は失敗する」というテクストは、そこに引きずられると底なし沼に陥るような罠ではないか、とも感じていたのだが、とはいえ宮沢さんがあえてそれを引き受けることでこの作品の演出を手掛けていった、というのもまたひとつの道の選択なのだと思う。

 

舞台下手からゆっくりと人が歩いてくるシーンが、とてつもなく美しくて、しばらく佇んでしまった。これは今回のF/Tの中で、わたしにとって屈指の体験でもあった。それは、舞台上に捨て置かれた様々なマテリアルともあいまって、津波で何もかもが流された海岸と瓦礫のように見えた。……それを「美しい」と感じることは残酷だし、倫理的にアウトだろうと思いながらも、「美しい」と感じてしまう自分を止めることができなくて、だからただ佇むしかなかったのだ。といって、これが現実を美化しているとも思えなかった。現実の前に芸術が敗北している、などということではないと思うのだ。けっして。……それで、焼け野原を見て美しいと感じたというかつての画家のことを思い出したりもした。いや、空襲と津波を同一視することはできないのかもしれない。けれど、いずれにしても、そこで「美しい」と感じるのは、けっしてただの美学的な尺度の中に籠もろうとしているわけではない。むしろそれこそが弔いだったり、あるいは未来への意志だったりすることだって、あるのではないか……。

 

ちなみにこの作品に先立ってリーディング公演が行われており(http://bricolaq.hatenablog.com/entry/2013/11/19/110411)、その体験とこの作品とのあいだにはやはり何らかの連続性があるのだと思う。しかもすでに小沢剛による『光のない。(プロローグ?)』が上演されていることも無視できない要素であり(http://bricolaq.hatenablog.com/entry/2013/12/05/173429 )、例えばとある高校生がこの宮沢さんの上演を観て、小沢さんの上演でのイェリネクの言葉がフラッシュバックしてきて感動した、というようなことを言っていたのも、なるほどなと頷ける。こうしたフェスティバルの観客にとって、観劇というのは、個別の作品単体で完結するものとはかぎらない。もっといえば、様々な演劇が、結局そこだけでは完結しないのではないか。

 

例えばこの舞台にイェリネクのテクストがもたらしているある一種の「匿名性」は、わたしに先日観た地点の『ファッツァー』のことを想起させた(http://bricolaq.hatenablog.com/entry/2013/12/06/032307 )。語り手の匿名性の中に、それを観ている「私」もまた含まれていく。それは、今生きているこの時代のことや、そこから連なっている様々な時間や空間のことを「私」に想像させる。

 

この日の女優陣に関しては(特に大場みなみとか)もっと我が儘に振る舞ってもらってもこっちは全然オッケーですよと感じたけども、そうした女優の個性とこの匿名性は両立しうるのだろうか。たぶんできる気がする。牛尾千聖があの独特な声でかなり気を吐いていた。彼女がしばしば口にしていた「紙と鉛筆……」のセリフは、イェリネクのものではなくて宮沢章夫自身が書いたものであるらしい。

 

 

 

夜はF/Tのパーティに参加。子供鉅人のメンバーがどやどやと数十人単位でやってきてびっくりした。ベルギーからやってきた身長207cmだかの大男、通称グレッグことグレゴワ・タテューを見上げながらいろいろ話すなど。そしてかなり奇妙な面子で朝まで飲んで、例によってサウナで眠る。

 

 

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