BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131124 小沢剛、わっしょいハウス

 

朝、カフェで女性と珈琲を飲んでいたら通りがかった友人に「エロい」とひとこと言われ、なるほどその発想はなかったわ、と思った。朝は爽やかだ、っていう先入観に囚われていたから。そのあと、とある場所で女の子を泣かせてしまい、泣いている状態はとてもヴァルネラブルだなあ、美しいなあ、ある種の解除を果たしたからこその強さを感じるなあ、ごく端的にいえばいい子だなあ、とか思いながら少々サディスティックというか冷静な目で見ていた。ふと目薬を差してみると、まるで二人で泣いているみたいになって、別れ話でもしているように見えたかもしれないが、事実はもちろんまったくそうではなくて、まだ付き合ってもいない。

 

「女の子を泣かせてしまった」という話を別の人にしたら、「ふーん、あ、そう」みたいに冷たくあしらわれ、大体あなたはなんだかんだで男女を気にする、と言われた。まあ正直基本的に男が嫌いなのでしょうがない。ちなみにその人は、「まだ付き合ってもいないのに別れる、ってのがあったら面白いね」と無責任なことを言った。あ、それ、ロロやん……。 

 

しかしもう「付き合う」とかいうことさえよくわからなくなっているのだ。例えば目を見つめ合う→手を握る→キスする→付き合う→セックスする→やがて結婚する→出産する→子育てする→いろいろある→死に至る、みたいな順番がもしもあるとすれば、その順番にはもう何の意味も感じられなくて、それどころかあの「所有」という強固な概念も今ではだいぶ遠くに退いてしまったのだから。

 

そういえば『東京ヘテロトピア』のガイドブックにジャイナ教の話が載っていて、wikiってみるとジャイナ教の修行者には5つのマハーヴラタ(大誓戒)があるらしい。

 

(1)生きものを傷つけないこと

(2)虚偽のことばを口にしないこと

(3)他人のものを取らないこと

(4)性的行為をいっさい行わないこと

(5)何ものも所有しないこと 

 

 

 

 

東京芸術劇場小沢剛『光のない。(プロローグ?)』。序盤のインスタレーションは、イェリネクの文字を刻んだ様々なオブジェ、もしくはその様子を映した写真によって構成されており、ついその言葉をまじまじと読んでしまった、という意味で、「言葉を読ませる引力」を感じさせた。

 

ただ途中からゴリラ(快快がかつて使っていたアレ)が登場し、移動しながらパフォーマンスを展開していき、やがて通路の「壁」が取り払われて大きな空間になる。牛の死体を模した人形が軟体も運び出されたり、安野太郎のゾンビ音楽が奏でられたり、フラダンス(いわきの海?)の映像が流れたり。そして最後は除染作業で出た土を入れたっぽいブルーシートの土嚢が登場するのだが、うーん、どうもこの後半部分にはあまりというかほとんどわたしはノレなかった。

 

というのはたぶん理由がふたつあって、まずひとつは見張りのスタッフによって「移動させられる」ことに鼻白んでしまったこと。もうひとつは、土嚢などを「見せつけられる」ことに何のインパクトも感じなかったということ。

 

今回F/Tのオープニングトークでも喋ったけども、芸術には「啓蒙」的な効果があり、それが悪いとは思わないが、いちおう日々ネットでニュースをチェックしている身としては、単に「世の中にはこんなことも起きてますよ、これが現実ですよ」ということを表面上見せつけられても「ふーんそうですか」感がどうしても拭えない。わたしは、わたしの知らない他者のリアリティを知りたいし願わくば受容したいとも思うけれども、「ナントカ問題」みたいな表層的なものを見せられても「はあそうですか」となるしかない。そして今回の試みは後者の域にとどまっているようにわたしには見えた。他の人がどう感じたのか、あるいは小沢さんが何を考えて後半を構成したのか、というのは知りたいところではある。もっと何か豊かなものが感受されうるのかもしれない。(最近は、わたし以外の人間がどういう感受性を持っているのかに興味が移りつつある。)

 

ところで、関係あるけどあくまで一般論として言うと、もしも何か言いたい政治的メッセージがあるのであれば、直接言えばいい、と常日頃から考えている。わざわざ芸術にしなくていいと思う。もちろん芸術には、政治的な直接的なメッセージには還元できないような複雑なニュアンスが含まれうるし、芸術を通してしか語れない、ということもあるとは思う。例えば宮本常一が『忘れられた日本人』でかつての対馬の翁たちの対話に見出したのは、近代的な政治言語に回収されえない「物語」によるコミュニケーションとそれがもたらす「時間」だった。芸術には様々な力がある。だけど多くの芸術家は、あまりにも早い段階で政治的な言語化を諦めすぎているのではないか、とも思う。これはちょっとよろしくない怠慢とシニシズムなのではないか? それはきっと政治と芸術が、そして政治と日常生活とが分離し、ある危険な状況の変化に対しても(アリバイ的にしか)物が言えなくなってしまった特殊日本的な問題なのだろう。結果的に、ここ2年くらいのあいだ、芸術は政治に対してほとんど力を持ち得なかった。それを単純な敗北だと捉えはしないが、敗北したのは事実だ、という反省も持っている。史上最悪の政権を誕生させてしまったのだから。いったい芸術には何ができるのだろうか。単に政治的なメッセージを発すればよいということでもない。ひとまず思うのは、「なんとなくうちらそれなりに問題意識高いし福島のことも考えてるし」っていう人たちの(目に見えない)共同体の中で芸術をやりたい/観賞したいとはわたしは思わないということ。

 

 

桜井圭介さんと少し池袋で飲んで、自分は何かを「挑発」するものがやっぱり好きですね、とかいう話をする。

 

 

新宿に移動して眼科画廊でわっしょいハウス『必要と十分』。やっぱり記憶を扱う作品ではあるのだけども、今回は後藤ひかりによる一人芝居のモノローグ。ムーンウォークっぽいというか、物語が単純には前に進んでいかないで、後ずさりしていくような感覚は独特だなと思う。内容としては、種子島宇宙センターのロケットをなぜか豊島区の東長崎に持って来る、という荒唐無稽な展開が面白くて、日常とSFが不思議に接続してしまうようなところには可能性を感じる。

 

あと、わたしは本当には引っ越すつもりがしばらくは全然ないのだが、ちょっとここで描かれているような感じの部屋に引っ越してみたいと感じた。これは不思議な感覚だった。なんとなくわたしのイメージとしては、3Fくらいの高さでロフトがあって、日当たりはまあまあよい白壁の清潔な部屋で、小窓からはちょっと町の生活音に触れることができる、みたいな。それは作・演出の犬飼勝哉氏の中に何かしら「町」に対する感性があって、わたしはそれに興味があるのかも。

 

 

夜はひさしぶりに新宿の某焼き鳥屋に顔を出してみたが、大将はいなかった。