BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131204 GsQの鼎談を読んで

 

この日も横浜でひたすら仕事をしていたが、「wonderland」にアップされていた落雅季子+藤原央登 +前田愛実の「God save the Queen」に関する「新しい女性性を巡って」という鼎談を読んで哀しい気持ちになってしまった。以前この日記でも「GsQへの極私的コメント」として書いたように、あの5作品を観て何をどう思うかにはその人の「現在地」が鏡のように映し出されると思うのだが、この鼎談の参加者のひとりである藤原央登という人の読解力や妄念溢れる想像力には驚いてしまう。もちろん褒めてはいない。巻き込まれた落さんと前田さんには、ご愁傷様としか今は言えない。お二人が別の解釈の可能性をどんなに示そうとしても、この人はまったく聴く耳を持っていないのだから、大変だっただろうなあ、とお察しします。お二人に関しては、また別の機会のご活躍を楽しみにしています。

 

こんなふうに相手の話を聞かずに、ただ持論を述べるだけであるのなら、鼎談ではある必要はない。例えばひっそりと自分のブログに書くとかであれば、まだ害が少なかった。けれど、それなりに大事だと思える場所(GsQの試みをある程度文脈化して位置づけるための語りの場)でこんな妄念を垂れ流されてはたまらない。編集部はいったいどうしてこの藤原央登という人を鼎談のメンバーに選んだのだろうか。「wonderland」はあまり書き手や文章を選別せずにかなりオープンに掲載する方針があり、だからこそわたしのような人間にも書く場所を与えてくださったので、その編集方針のメリットをある程度身に染みて理解してはいるつもりです。とはいえ、様々な解釈や意見があるのは(当然)構わないとしても、読み込みが浅いのに思い込みだけは激しいという劇評や語りを垂れ流していっては、批評言語全体の地盤沈下を招き、言葉への信頼が失われてしまうのではないかと危惧してしまいます。もちろん、そうではない批評を、説得力のある言葉を、別に紡いでいけばいい、といえばその通りなのですが。しかし正直、この鼎談を読んでだいぶ気持ちが萎えてしまったのは事実です。

 

発言を揚げ足取り的に拾うとかは趣味ではないし、ここから何か有益な論争が導かれる予感もまったくないけども、とりあえず最低限のことだけ言うと、鳥公園の『蒸発』についてあれが「リア充」と「干物女」の対比であるなどとという浅薄な構図を主張するのはいかがなものか。百歩譲ってまあそういう見方もありうるとしても、しかしそんな狭量な図式で一点突破にこだわるあまり、あの作品にあったはずの様々な魅力を無きものにしているのはいかにももったいないし、作品や作家に対してもかなり失礼だと思いました。というか、どんなにいい作品をつくってもそれを批評する側の言葉がこれでは……。Qの過去作品『虫』に対する解釈にいたってはもはやテリブル。恐ろしい。ひどい。この人は本当に単純な構図でしかものを捉えられないのだろうか? この鼎談のタイトルが「新しい女性性を巡って」なのはまったく皮肉としか思えない。せっかくどんなに新しいものが生まれてきても、これでは何もかも台無しだ……。

 

この日記にも以前書いた、クルム伊達公子の叫びをもう一度聞いてほしい……「日本の観客のため息には、エネルギーを吸い取られる!」。作り手を萎えさせるだけの言説を垂れ流すのは、もうやめにしてほしい。「観る人」はそんなにエラいのか? 誤解のないように言い添えると、わたしは、批評とは作家に向けて書くものだとか、応援すればいいだとか、そういうことを言いたいのではない。もう何度もリンクしてるけど、批評に関して書いた日記をまたここに貼っておきます。

 

▼20130910 余計なお世話(感想/批評について)

http://bricolaq.hatenablog.com/entry/2013/09/14/100948

 

▼20130911 『演劇最強論』刊行にあたって(裏)・批評家と作家の関係について 

http://bricolaq.hatenablog.com/entry/2013/09/17/181406

 

上記の最後でも書いたけども、ふんぞりかえって何かを「評価」するような態度は、現代の批評家に必要なものではないとわたしは思う。古くさいオールドスタイルの批評家の真似事を批評などと呼ぶのははもう終わりにして、新しいフィールドをつくっていきたいと強く思った。

 

鼎談の最後に「もっとしたたかになれ」的なことまで氏は言っているけども、「不憫」だの「けなげ」だの言われなくても、彼女たちは彼が考えるよりもはるかにしたたかだと思う。むしろきちんとリスペクトをするのであれば、彼女たちのタフネスをもっと信じていいのではないか。ここに出ることを選んだのは彼女たち自身なのだし、そこでリスクが生じることは重々承知であるはずだ。もちろんそれは勇気のある選択だ。確かに、注目を集めるような場所に呼ぶことが作家にどういう影響を及ぼすのか、果たしてそのタイミングがふさわしいのかどうか、まったく顧慮しないようなプロデューサーやキュレーターや編集者も、もしかしたらいるのかもしれない。仮に悪意がなくとも、才能をいたずらに消費してしまうということもありうる。大舞台に出すに際して必要なサポートを十分に施さない人だっているかもしれない。しかし徳永京子がそんな安易な考えで仕事をしているとはわたしは思わない。『演劇最強論』の共著者だから擁護しているというのではない。彼女の仕事ぶりを丁寧に見ていけばそれは分かるはずだ。短期的に作家を見てはいない。そしてつねに彼女なりの責任の取り方を考えていると思う。

 

わたしも、近年の小劇場に取り憑いていた消費の異常な速度を憂慮していなかったわけではないし、ある場所にピックアップする/されることの怖さを感じることもある。というか自分自身、そうした消費の速度の上昇に荷担してしまったのではないかという反省もなくはない。ただしそれは演劇の未来にとって必要なプロセスだったとも感じているし、「20年安泰。」(2011年)と「GsQ」(2013年)とのわずか2年のあいだにその速度もいくぶん落ち着いてきたところがある。観客たちは以前のように熱狂的な躁状態を示さなくなっているし、それは悪くない変化であるとわたしは思っている。

 

それに、仮にある作家が、どこか大きな注目を集める場所に出て傷ついたとしても、その経験が無駄になるとはかぎらない。やめていく人もいるだろう。何年かかかってようやく復活する人もいるかもしれない。ただ作家には(回復や成長に必要な時間は人それぞれだとしても)不屈のたくましさが宿るのだとわたしは信じたい。これからきっと、誰も経験したことのないようなタフな時代がやってくるだろう。どうやって生きていくのか。過保護だけではやっていけない。トンチンカンな代弁なんて、それこそ余計なお世話である。作家たちはそれぞれに感じて、考えて、実践しているはずだ。そういう歩みに宿る、ある種のしなやかな強さを信じたい。