BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130912 GsQへの極私的コメント

 

この日はムサビで「mauleaf」の打ち合わせをして、そのあと2人とエミュウ(ムサビ内のカフェ)でお茶をした。人生山あり谷ありだよ、なんて簡単にも言えないし、甘い言葉を囁くのも無責任だと思うけど、まあ先は長いので、あんまり思い詰めないで欲しい。少し風邪気味でクラクラしていたけども、池袋に着く頃には、これから観劇をするという一種の興奮のせいか、すっかり良くなっていた。タフになったもんだな。ジュンク堂に寄って、芸術書担当のエンジェルMさんにお会いしていろいろ話したりとか。

 

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GsQこと芸劇eyes番外編『God save the Queen』初日。あとで日曜のソワレにももう1回観たので、合わせて書き記しておきたい。まず企画コーディネーターの徳永京子さん、東京芸術劇場、それから何よりこの「括られ、比較され、アウェイの限定された環境の中で、超無責任に愛やら石やらを投げつけられる場」に出るというリスクを引き受けた5人の勇気ある作家たち、そして各作品の出演者やスタッフに敬意を表したいと思います。

 

さてそのうえで、「女性」で括られるというこの企画への様々な反応について思うところもあり、いろいろと思案をめぐらしもしたのだが、数時間におよぶ脳内会議がひらかれた結果、「うん、めんどくさ。とりあえず、今は気にしないことにしよう」って結論に落ち着いたので、ここでは極私的(きょくしてき)な感想を述べるに留めたい。

 

ひとことだけ。5作品を観て何を感じるか、というところで、実はその人自身の現在地が鏡のように映し出されたりもするのかもしれない。

 

 

 

▼うさぎストライプ『メトロ』

ふだんあんまり演劇を観ない人には、このポップな可愛さと軽やかな手法とが斬新なものに映りうるだろうし、今の演劇ってどうやら思っていたのとは全然違って新しいのね、と驚きを感じることもあったかもしれない。それは結構大事なインパクトではあると思うし、実際そうした声も聞いた。

 

でもここでは違う話をしたい。twitter上での、批評家・桜井圭介(@sakuraikeisuke)と鈴木励滋(@suzurejio)のやりとり、およびそれに対する作・演出の大池容子(@ike_usagistripe)の応答も見たので。

 

つまりはこういうことだろう。彼女たちの「切実さ」は本物なのか?、と。うさぎストライプは、まず「壁」を仮構してそれをみずから押すようなところがあるので、どうしてもポーズに見えてしまう面はあると思う。それでもそのなかに本物と呼べるものがあるのかどうかということ。現時点ではちょっとわからない。もちろん姿勢には真摯なものがあるのだとしても、戯曲の踏み込みがもう一歩甘いのではないか、と今回は感じた。物語をシンプルにして寓話的になること自体は必ずしも悪いとは思わないけど、結果的に、感傷的な喪失感ばかりが前面に押し出されているように見える。それでいいのか? もしかしたら今作に何らかのインスピレーションを与えているかもしれない(とあの歌を聴いて地下鉄が舞台ときたら当然考えてしまう)『輪るピングドラム』は、地下鉄サリン事件とその闇についてもっと肉薄しようとしていた。もちろん20分という上演時間で描けるものはかぎられているのだが、ある何かしらの「わからなさ」を描く時に、「わからない」と諦めてしまう場所が手前すぎるのではないだろうか。別に政治的・社会的なテーマを扱ってみました、というようなよくあるお勉強的な演劇が観たいわけでは全くないのだが、ダークサイドに対する踏み込みの浅さは否めない。人の死や、誰かがいなくなる、ということについてもっと畏れのようなものが欲しい。個人的には、歌も含めて、寄りかかるもの、補助輪がなくなったところでの新たな作品を観てみたいです。まあ完全に余計なお世話だけれども。

 

とはいえ今回の『メトロ』には好きなところ、良いと感じるところもあった。なによりプロセニアムの舞台空間において、美しい絵を何枚か見せられているように感じたところとか。俳優の配置と舞台空間との構図が良かった。特に個人的には、水野拓による指差し確認のシーンが好きだった。

 

 

▼タカハ劇団『クイズ君、最後の2日間』

初めて観る劇団。最初、ピンと来なくて、2回目も残念ながら魅力的に感じられなかった。どこかにいた(いる)であろう自殺者の存在、2ちゃんねる、政治的な言葉、お笑い芸人を目指しているコンビの破局と上京の失敗……などが描かれていくが、それらがわたしの中ではうまく像を結ばなかった。いくつかのネタが笑えなかった(「つまらない」ことが笑えなかった)というのも大きいけども、ある若い男の子の自殺という事件にどうアプローチしようとしているのか、どうそれをみずからの作品にたぐり寄せようとしているのか、そこがわたしには見えなかったのだと思う。

 

ところで「クイズ君」は実際にネット上に今も存在(?)する。検索すると出てくる。彼が最後、飛び降りる直前に、自分の本名を明かしたのはなぜだろうか。

 

 

▼鳥公園『蒸発』

初日からすでに抜群の出来や……と静かな興奮を覚えたけども(これまでにない腹の括りようを感じた森すみれは、あの日のGsQのMVPだと思う)、2回目に観た時は、始まる前の0場的な時間に野津あおいが暗闇の中で踊ったり、音楽がまがまがしく割れて重ねられたりして、なにやら不穏な空気が増していた。コッコちゃんVS蛇女の様相。

 

日雇い労働の現場のエピソードで平然と外国人に対する差別的な言辞が繰り出されるかと思えば「(日本に来たんだから日本語を喋れというようなことを)英語で言ってやろうと思って、でもうまく言えなかった」という滑稽さ(日本人の狭量さに対するアイロニー)が込められていたり、「森ちゃんどうしたの、今日はシモに走るね」と言ってさらりと「別に普段から鳥公園はシモネタやってるわけじゃないですよ」と暗に初見のお客さんにアピールしたり(?)と、心憎い目配せは多々ある。しかしなによりも、語り手の主語を奇妙にずらすという間接的な話法によって、バーチャルに希薄化する世界の中ですれ違う人間関係を描出し、それでもなお「ここにいるよー」と呼びかける、おそらくは鳥公園にとって最も重要と思われるメッセージが、この20分という短編のなかで見事に発せられていたのがよかったと思う。

 

森すみれに気持ちの悪い自慰行為的な反復運動をさせながら(穿った見方をすれば、反復なんて所詮男の自慰みたいなもんでしょ、という揶揄かもしれない。いや勝手なただの想像だけど。これまで鳥公園はわたしの知るかぎり反復的な手法はほとんど用いていない。『おばあちゃん家のニワオハカ』のラストでループがあったくらい?)、いっぽうで野津あおいは自由に(?)泳がせ、時折ソフトボールのアンダースローみたいに何かをシュッと投げるようなフリをつけるなど、身体的・ダンス的にも観ていて飽きなかった。(ちなみにあのアンダースローは、かつて作・演出の西尾佳織自身が一人芝居でやっていたのを観たことがある。よくわからないけどきっと大事なものなんだろう。)

 

ラスト、「今日は遅くなるね」と言って去っていく「野津ちゃん」が、もう二度とここに帰ってこないのではないか、と思ったのは『蒸発』というタイトルのせいかしら。それにしても野津あおいのフィットぶりと妖艶さは素晴らしかった。またぜひ鳥公園に出てほしいな。

 

 

▼ワワフラミンゴ『どこ立ってる』

別世界にいます。

 

……の一行で終わってもいいくらい、いやあ、面白かったなあ。役者さんたちも(もちろんあのタヌキこと北村恵含め)輝いていた。多賀(麻美)ちゃん生き生きしてたなあ、とか、名児耶ゆりの歌はいつもなんとなく聴いてしまうなあとか。観ていて幸せのドーパミンが脳内にひろがるあの感じ。のみならず、こういうシュールさは、既成の価値認識を脱構築する(脱臼させる)ような力がある、とわたしは思います。「世の中、金だー!」と札束ばらまいて叫びながらすぐに無関心になったり。出口のない喧嘩をしていたはずなのにひとりが謎のキレ方をしてなんとなくどうでもよくなったり……。

 

ものすっごい細かいことを言うなら、初日に観た時のほうが微妙に(超、微妙に)良かったように感じる。間(ま)とかが。これが果たして受け入れられるかどうか分からない、という不安定な危うさがあるほうが、より彼女たちの世界は迷宮入りしていくのではないだろうか。

 

これからもつくりつづけてほしいです。

 

 

▼Q『しーすーQ』

Qの世界はどんどん巨大なものになりつつあり、わたしも含めて常人にはとんと理解できない地球の果てにまで到達しつつあるようだが(いや実はすごく響いてますが)、幸いにして彼女たちはまだ若いので、生まれるのが早すぎて時代に認められなかった……なんて言われることはないだろう、きっと。よかったよかった。そのうちQによって革命が起きる日までは生きていようと思う。

 

『しーすーQ』は初日から完成度が高く、どちらかというとコミカルにまとまっていて、十分手応えを感じるし、面白かったんだけれども、2回目に観た時にびっくりするくらい爆発力が増していて、震えてしまった。飯塚ゆかりの「ぽーん!!!」みたいなあのパワーが特に凄かった。彼女は女優としてガッツ出てきたというか、凄く伸びを感じる。動きがすごく魅力的。今や『天才バカボン』の中に登場してもバカボンやパパやハジメちゃんとかとも渡り合えるような気さえする。日曜ソワレのGsQのMVPでしょう、とわたし的には思った。そしていっぽう、エイ子こと吉田聡子は着々と芸風を拡大しつつあるらしい。なんなのかあの人は。おつカレイの煮付け。

 

全然関係ないのだが、というか関係あるのだが、さっき、というのはこの日記を書いている9月17日の夜に、京急に乗って浦賀の近くにある海岸まで行き、その海べりをぷらぷらと歩いていて、なんとなく波音のざわめきと磯の匂いに懐かしさを感じて『しーすーQ』のことをぼんやり思い出したのだった。人間と魚類のハーフ、という今回のモチーフは一見突飛なようだけど、半魚人や人魚といった半人半獣の存在は昔から夢想されてきたのだし、今回映像として引用されていた春画にもタコに犯される女の姿が描かれていたように、人間の想像力というか夢は、どこか人間という種に与えられた運命を超えてしまうことがあるらしい。遠洋漁業の漁師たちが、エイを「乙姫」と呼び、その生殖器と交わっていたらしいのはどうやら事実だし、仮に事実ではないただの噂だったとしても、そのような噂が語り継がれるくらい、人間はそのようなことを想像し夢想してしまうのである。この夢と運命の関係については、まさにQの『いのちのちQ』を論じる形で『演劇最強論』に書いたので、ここでは繰り返さないけど、まあそんなようなどうでもいいことをつらつら考えながら海沿いを散歩していたついさっきのこと、その暗がりの中から、誰かが打ち上げ花火を海に向かって発射しはじめた。8発か9発だったと思う。暗くて見えなかったけど、たぶん、話し声も聞こえないから、ひとりだろう。そしてこんな時間にこんな場所にひとりでいるのは十中八九、男だろう。ではその男が、いったいなにゆえに、こんな秋の夜に花火を海に発射したのか、寂しいのか、狂っているのか、単なる余興なのか、あるいは誰かに発しているモールス信号的な暗号なのか、全然わからないのだが、わたしにはそれは海への射精であり、海への恩返しであり、海に帰りたいと欲する夢の現われのようにも思えたのだった。

 

だから何?、と言われても特に答えはないです。

 

 

 

 

 

 

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