BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130911 『演劇最強論』刊行にあたって(裏)・批評家と作家の関係について

 

ひさしぶりに日記を書く。どうも日記を書かないと循環が滞るらしい。記憶をたどってみる。そう、この日は『演劇最強論』の発売日だった。昼間は温泉銭湯に籠もって仕事をして、夜は、伊勢佐木町のお好み焼き屋で、横浜トリエンナーレサポーターのリーダーたちと食事。えー、本出たのー、買うよー、と冗談のように言われたのだけども、実際すぐ次の日くらいに買ってくださったらしい。とてもうれしい。

 

この本は、売れる売れないに関わらず良い本だ、と言いたいけども、売れなくてはいけない、という使命を帯びている。というのは、たくさんの方々に協力していただいたこの本でさえも売れなかった、となると、もはや演劇関連の本を刊行することは(大スターの誕生という道以外)きわめて困難になるだろうから。出版社は商売なので、数字的な実績は当然気にする。あとに続いていく人たちのためにも、この本は売れなければいけないと思った。もちろん自分だってまだ何かを書いて出版したいし(たぶん)。

 

演劇最強論

演劇最強論

 

 

『演劇最強論』の概要については、すでに「刊行にあたって」を書いたので、もう別に何も書かないであとは反応を待てばいいといえばそうなのだが、ちょっと別のこと、本音のようなことをつらつら書いてみる。

 

まず思い起こしてみると、この本が出るまでの数日間は憂鬱だった(マリッジブルー的な?)。というのも、言いたいことはすべてこの本に書いたから、それを読んでくれればいいのであって、それまでの間、人に会って話していても、まるで自分が空っぽのような気がしたからだ。しかしいっぽうで、この本が自分の魂そのものであるかというと、決してそうではなく、いざこうして書籍という体裁になっているのを見ると、まるで赤の他人にも思えてくる。なかなかポップで可愛いな、という感じ。大先輩である徳永京子さんとの共著というのも大きいし、担当編集の高橋祐美さんの意向やアイデアもかなり取り入れられている。彼女たちとの作業は、最初から最後までとても楽しかった。(まだ終わっていない気がするのはなぜだろうか?)

 

誰かひとりだけの思念を具現化した本にするつもりは、そもそもの最初からなかった。「あとがき」にも書いたけども、『演劇最強論』は、現代演劇にかんする議論の土台になってほしい、と思ってつくった。だから、批判されたとしても、それが建設的な議論に繋がるのならば、むしろ歓迎したいと思っている。言い換えればそれは、現代演劇にかんする批評が次のステージにいけるかどうか、ということで、今がかなりそのタイミングなのだと感じている。

 

 

前日の日記にも書いたように、多くの人は、自分の見たいようにしか見ない。その傾向は近年どんどん強まっているようにも感じている。おそらくインターネットの時代における情報収集の在り方が、世界を、「私」を中心にとりまく環境として、「私の関心・趣味・お気に入り」の延長線上にあるものとして、認識させていくのだろう。そこでは様々な存在が「私の関心・趣味・お気に入り」の枠外にあるものとして切り捨てられていく。この傾向を止めることは困難であり、売れることでパイを拡大する、という以外に「切り捨てられたもの」の取り得る戦略としては、その「私の関心・趣味・お気に入り」のフレームの内部に、異物として、ニュッと現われるしかないのだろう……。つまり、偶然性をいかにして生み出していくか。アクシデンタルなこと、ハプニング、未知のものとの出会いが、生まれやすいような環境(アーキテクチャー)をいかに構築していくか、ということしかないのかもしれない。

 

だけれども、「切り捨てられたもの」は往々にして不器用なので、優れたプロデューサーやキュレーターの手助けがなければ、戦略的にアーキテクチャーを構築していくなんてことがうまくできるわけもない。それで、不器用に、ただ祈るしかない。手紙を書くように、投瓶するように、何かを投げていくことしかできない。わたしはこの不器用さを手放しで称揚したいとは思わない。その不器用さにひらきなおる態度は好ましいと思わない。それはもはや作家然とした、アーティスト気取りのポーズでしかないのだから。でもその不器用さと共にあるはずの一種の真摯さに、いつも心を打たれるような気持ちになるのは事実だし、それくらいしか、この世界に信じられるものはない、とさえ思ってはいる。

 

作家というのは、大体にして、こうした不器用な存在であることがほとんど(あるいはすべて)であり、彼らはひたすら不器用に祈っているようにも見えるのだが、ではその祈りが誰かに「届く」とは、どのような状態を指すのだろうか? ある演劇作品が、観客に「届く」とは? わたしはそうした時、いつもたったひとりの誰かのことを想像する。客席にまぎれているのであろう、そのたったひとりの誰かが、「わたし」という観客であるとはかぎらない。全然知らない人かもしれない。だがその誰かの姿が見えたような気がした時、わたしはその現場に立ち会えたことに感動するのだ。いま、確かに誰かに「届いた」のだと。……いや、ちょっと比喩的・抽象的な話になってしまったけれど、言いたかったのはたぶんこういうことだと思う。つまり、ある作品が、売れるとか、エラい人に認められる、とかいったこととは別の何かが、演劇の現場にはある。わたしはその「何か」が気になっているし、それが仄見える瞬間を目撃したいという欲望を持っている。

 

 

ところで批評家は、多くの場合、作り手側からでさえも、「宣伝効果」か「自分のやっていることへの承認」しか期待されていない。仕方のないことだと思う。もはやそれが残念だとさえ思わない。おそらく、批評家は、作家の祈りとはまた別の夢を見ているのだが、そのことは世間的にはほとんど知られていない。たぶん作家にさえほとんど知られていない。別に秘密にしているわけではないのだが、おそらく異次元の彼方にありすぎるからだろうし、近年、その夢を語る批評家がほとんどいなくなった、ということも原因ではある。もちろんその祈りと夢とが、たまに重なる、という幸福な瞬間はあるのだが、本質的には、やっぱりそれは別のものなのであり、必ずすれ違っていく。そのことを認めるまでにずいぶん時間がかかった。「キレなかった14才♥りたーんず」で演劇の現場に深く関わるようになってから、約5年。様々な作家と関わってきて、喧嘩もしたし、美味い酒も呑んだし、なにより作品を通して斬り結び合うということがあった。それがわたしの場合、今年2013年の2月あたりから認識の転換が目に見えてはじまり、3月に決意のようなものが芽生え、4月に事故で大怪我をしたこと、そして5月に友人の死を知って、何かが壊れたというか、生まれたというか、した。この一種の座礁と再生のプロセスがなかったら、たぶん『演劇最強論』は書けなかったと思う。

 

批評は作家を勇気づけたり、鼓舞したり、擁護したり、挑発したり、時には身を挺して(身を切るようにして)批判したりするのだが、近年の演劇を見ていて感じるのは、広大な世界への飛距離をどうやってつくるかということで、それこそが今、批評に与えられた仕事なのだろう。作家がどんなに努力してもがいても、批評の言説が変わらなければ、すでに構築されているフレームの外に抜けていくことは難しいのではないか。売れる、ということでしか抜け出ていけないのは、あまり幸福なこととは思えない。というかそれは果たして「抜け出た」のかどうか?

 

さて、批評には重大な仕事が与えられている。だとしたら批評家は、まず椅子にふんぞりかえることをやめなければいけないだろう。少年少女のような心持ちで、目の前に起きているアメイジングな出来事を、あらためて見つめてみなければいけないだろう。ある程度の数の作品を見ていくと、そうした驚きの心……この言葉はなんだか手垢がついていてあまり好きではないのだが、センス・オブ・ワンダー……は摩滅していくのだ。磨り減った感性、汚れて曇った目で何かを見つめても、そこにあるのはただの「既視感」であり、「過去の何かの残骸」であり、「無知な若者の幼稚な遊戯」としか映らない。すでに持っている自分のフレームに当てはめることしかできない。それでも何かしらのことを言った気にはなるし、見た気にもなる。しかしそれは錯覚なのであり、「評価」や「査定」や「確認」ではあっても、「批評」ではないとわたしは思う。批評家というのは、ある種の冒険者ではないのか? リスクを負った冒険者。批評家が劇場に行くのは、秘境に探検しにいくようなものなのだ。そしてまだ言葉にされていないものを発見すること。それが批評家の夢なのだと思う。

 

『演劇最強論』が批評として完璧だとはまったく思わない。むしろただのはじまりにすぎない。でもとても大事な一歩じゃないかな、と思っている。