BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

ロロ『ハンサムな大悟』

 
童貞のまま30歳になると魔法使いになれる、という俗説があるけれど、別に童貞を捨てても魔法使いになれることを、この舞台は証明した。

 

ロロ『ハンサムな大悟』は、珍しく(初めて?)劇団員だけでつくられた作品であり、原点回帰の意味合いも込められていたのかもしれない。事前にレポート「大悟のハンサムじゃないほう」を読んで、その良い意味での内輪感に触れて、これはかなりいい予感がするなあと思っていた。内輪だが、なんというか、抜け感、があるのだ。

 

果たして舞台は、やはりこれまでのロロの長所がいかんなく発揮されたものになっていた。ボーイ・ミーツ・ガールや家族というモチーフ、そして過去と未来がメビウスの輪のように繋がる感覚、独特のネーミングセンス、シームレスな場面転換(杉山至による舞台美術がこれをさらに美しく具現化!)、小説家フランソワ・ラブレーばりの破天荒な想像力、アニメやテレビなど日本のポップカルチャーからの引用、そして先の読めないストーリー……etc.

 

しかし過去作品との最大の違いは、なんといってもセックスが描かれていたことである。これまでのロロが、どこか童貞であることを手放さないからこそのチャーミングさを保っていたのだとしたら、今回は、通過儀礼をすでに済ませ、しかもなお様々な味を知ったオトナの魅力を随所に漂わせていた。

 

とはいえ彼らが描くセックスは、明るく突き抜けて奔放であり、健全な野蛮さをさえ感じさせる。良くも悪くも湿り気はほとんどない。性を描き、しかも誰かの記憶というありがちな設定を扱いながら、ほぼまったく自意識に頼っていないのは新鮮だった。主人公の大悟はずいぶんと空っぽの人間に思える。天才のように見えながら、実はおそろしく凡庸にも見えるのは不思議だ。その空っぽな存在の中に、様々な人間が入り込んでくる。時には唐突に……だが、やさしく。そうして描かれていく『ハンサムな大悟』は、大悟の物語でありながら、それ以上に、脇役であるはずの周囲の人間たちの物語でもある。ナイスフルーツさんや、ヨーコや、霞ヶ関麗しきや、クルブシタケル……といったキャラクターが生き生きとして見えてくる。

 

とはいえ、めまぐるしくパッチワークされたこの物語は、いわゆるオーソドックスな群像劇とはだいぶ趣が異なり、複数の人生が泡沫の夢のように現れては消えていく。そんな多様なキャラクターをシームレスにくるくる転換させていくことに成功したのは、前述したような杉山至の舞台美術と、そしてなんといっても5人の俳優(と制作・坂本もも)の演技力の為せる業である。彼らは、現代小劇場演劇の申し子のような軽い身体性をキープしながらも、時間の余白に身をひたして遊ぶような成熟した余裕があるようにも感じられた。

 

こまばアゴラ劇場の狭い空間に、そんな彼らが妄想する空や、星や、海や、木が、出現する。作・演出の三浦直之だけの妄想ではなく、これはロロの劇団員たちによってつくりあげられた世界だ。そして特に言及しておきたいのは、そうした世界の中で不気味な存在感を放つ、大悟が親しんで育ったアレ……。時空を超えた恋愛という、キラキラした軽やかなロロのイメージの中に、得体の知れない異物が新たにせりあがってきたように思う。

 



以下は余談として。

 

先日滞在したマニラや北京では、アニメや音楽などを通じて日本のポップカルチャーに親しんでいる若い人たちに出会った。特に今回のロロの作品は、北京にいる梅ちゃんが観たら喜ぶんじゃないかしらと思う。彼女はほぼ網羅的に日本のアニメを見尽くしていて、「ループものはありがちだから特にもう驚かないですね」とかなんとか言ってのけるくらいの猛者である。

 


ところでわたしには「F/T公募プログラムの呪い」なるものがあって、日本の若手の演劇がF/Tアワードのような国際的なコンペティションの場でほとんど評価されなかった、という事実に当時結構なショックを受けたものだった(2014年1月10〜12日あたりの日記になんとなく記されている)。ちなみにロロは2011年に参加し、元ネタがハイコンテクストすぎてわからないのではないか、という診断を下されたと記憶している。だがそうした評価になってしまったのは審査員が怠けていたとかいうわけではなく、海を越えるために必要な批評的文脈をわたしも見い出せていなかったし、作り手たちの意識としてもその準備ができていなかったと思う。

 

そして2014年にマンハイムで開催されたテアター・デア・ヴェルトで3週間を過ごしてからは、日本での上演を観ても、果たしてこれが海外のどこかの都市で通用するかどうか、を考えて観てしまう癖がついた(字幕の有無はさしあたって問題ではない)。別にドメスティックな作品の全てが悪いとまでは言わないが、今はどう海を越えていきうるかにわたしの興味は移ってしまっている。

 

その点で言うと、今回のロロ『ハンサムな大悟』は、いける、と思った。もちろんアジアにもヨーロッパにもアメリカにも保守的な人間は山ほどいるのだから、できるだけ若くてフレッシュでオープンな感性を持った観客たちに届いてほしいという意味で。

 

この作品は政治的テーマを描いているようにも見えないし、日本特有のエキゾチシズムに訴えかけているわけでもない。そのような短絡的なわかりやすさはない。むしろ圧倒的にわけがわからないと言ってもいいくらいだ。そのわけのわからない世界が、しかしまったくテキトーにではなく、丁寧に、緻密に、そして時には大胆な飛躍を果たしながら、丹念に積み上げられたものだという説得力が宿っている。今、買ってきた台本を読んでみてもかなり爆笑もの(涙もの)の面白さで、いくつかのシーンを引用したいくらいだけど、まだ公演日程が残っているのでここには書かない。

 

「わけのわからなさ」という言葉がふさわしいかはさておくとして、北京滞在記の5日目にも書いたように、芸術の強さはたぶんこの「わけのわからなさ」によって担保される。政治的なものであれ、お涙頂戴のメロドラマであれ、安直なメッセージは適当に消費されて忘れ去られてしまうか、あるいは天安門広場のあの女のように犬死にに終わってしまうだろう。しかしながら、わけのわからないものはそう簡単に忘れられないし、やられもしない。そしてこれはもう命や魂のようなものである。肉体を繋ぎ合わせてもそれはただの部位の集合体であり、命や魂が宿るわけではない。しかしある種の作家が描き上げるそれにはなぜか命や魂が宿る。批評家を名乗って仕事している以上こうした言葉はできるかぎり使いたくないが、それはもう理屈で簡単に説明できるものではない。いちおう物語の構造がこうだとか、美術の設計がこうだとか、キャラクター造形がこうだとかいう分析は多少目鼻が効きさえすればできるけれども、何が観る者の心を打って(撃って)いるかといえば、結局は命や魂の部分なのである。だからこそわたしは演劇の批評が面白いと思っているのかもしれない。わけのわからないものをあいだに挟んで、観客と作り手とが対峙している(あるいは時には混ざってしまう)。そこで何かが起きる。その現象こそが演劇と呼ばれてきたものの正体ではないだろうか? そしてそこに立ち会い、目撃し、何かしらを記述することが批評の役目のひとつであると思っている。

 

ロロのこの作品は、海外においてもそうした現象=演劇を起こしうるポテンシャルを持っていると感じる。しかしそれ以前に、まだ公演は続いている。つまり、まだそれを目撃するチャンスがかろうじて存在しているということである。

 

 

【ロロ『ハンサムな大悟』公演情報】

http://lolowebsite.sub.jp/HANDSOME/PC