BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

デュッセルドルフ滞在記2-7

 

7日目、水曜日。ようやく朝の8時まで眠れた。5時くらいに起きてしまう老人のような生活にこれでオサラバできるといいんだけど……。後はもうただ、デュッセルドルフの太陽が昇って沈むことだけを考えたい。(お約束している劇評を含め、書き仕事はやりますよ。)

 

 

今日は、とりあえず無目的に、目の前に来たトラムに乗ってみる、という行為を繰り返してみた。トラムは蛇のように都市の中をするすると這っていく。意外なところに繋がるたびに、脳内地図にある都市のノード(結節点)が書き換わっていく。「聖地」に巡礼した後、適当に歩いていくと、飾り窓に着いた。おじさんが口笛を吹きながら、そこから出てきた。

 

偶然と直感に身を任せるのは楽しい。けれど一方では、全体の設計も練らなくてはいけない。デュッセルドルフの各エリアごとに、これまで集めた情報を整理してみる。去年撮り貯めた写真も見ながら、記憶を再度、具現化していく。情報量がまだ全然足りてないなこれは……と思った。とはいえここから欲しいのは、デュッセルドルフの観光案内的な情報ではなくて、もっと私的な、個人的な情報。またの名を物語ともいう。物語が欲しい。とにかく遊歩を繰り返してみようと思う。それでばったり誰かに会えるといいな。

 

 


ちなみに、ある日系レストランで夕飯を食べたのだが、働いている女の人が極めてカリカリしていて、新人とおぼしき人を何度も何度も叱っていた。こういう人はきっと「自分は仕事できる人間だ、なのにこいつは……」と自己認識しているのだが、目の前でそんなことをされればラーメンが不味くなるに決まっていて、だから客商売としてはむしろ失格である。悔い改めていただきたい。というか、日本から遠く離れたここデュッセルドルフまで来て、幸せを目減りさせるようなことをどうしてしなければならないのか?

 

でも、そうなってしまう人がいる、という現実も、やはり都市は呑み込んでいるのだと思う。ここも当然、理想郷ではない。LIEBE DEINE STADT(あなたの町を愛しなさい)。

 

 

かなり迷ったが、これもかりそめの根を下ろすためのひとつの儀式だと思い、ジャガイモ2.5kgを買って帰宅した。ジャガイモには3種類あった。後でわかったのだが、わたしは「煮崩れしにくい」という中間のやつを選んだようだった。常時ネットに接続できれば、その場で調べられるんだけど……。でも数日前に比べれば、ドイツ語表記に対する恐怖心(?)もだいぶ消えてきたのを感じる。どうしても必要な場合は誰かに訊けばいい、という楽観的な身体もできてきた。町の人たちがふとしたことで話しかけてくる確率もだいぶ高いし。今日はおばあさんが「今何時?」と訊いてきた。彼女は腕時計をしていたが、どうもそれが狂っているようだった。

 

帰宅すると、家主である若き写真家がいた。「面白い場所を知ってたらぜひ教えてね」とお願いすると、「面白い、ってどういう場所ですか?」と質問。うーん、そうねえ……

 

そこに立ってみた時に、違和感を抱くような場所。何かが起こるような場所。

風通しがよい場所。もしくは逆に、吹き溜まっているような場所。

 


……デュッセルドルフでの滞在制作は楽しい。けれど締切があるわけだから、時限爆弾を抱えているようなものだし、何も心配がないわけではない。最初の話に戻るけれど、ただデュッセルドルフの太陽の恵みだけを考えられればどんなに幸せかと思う。実は風邪をひきそうなのがちょっと心配。だから生姜も買ってきた。お茶に入れて眠る。

 

 

 

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デュッセルドルフ滞在記2-6

 

6日目、火曜日。引っ越しをする。陽当たりの良かったあきこさんの家を去るのは寂しいけれど、たぶんここから「次」が始まるのだろう。今度の家主は若い写真家。なんと子供鉅人の益山兄と同郷らしい。ヌードを撮っているとのこと。作品を見せてもらった。彼はアジア各地を放浪し、様々な人々のヌードを撮っていた。今は笑い話になっているとはいえ、やや危ない目にも遭ってきたようだ。そうして今はここデュッセルドルフに拠点を置いて、ヨーロッパの人たちのヌードを撮っている。とても面白い。彼の佇まいはなんだかふわっとしていて、脱いでください、と言われたら脱いでしまうのもわかる気がする。

 

夜はMiki Yui & Carl Stoneのコンサート。様々な音をサンプリングしているのだが、そのボキャブラリーが豊かで、ただ心地良いのみならず、イメージを膨らませることもできた。去年も使われていたホノルルの時報がやはり気になる……。そして会場ではいろいろな人たちに出会う。ドイツ語が話せないのが申し訳なくもあるけれど、英語でいろいろ喋りたい気分でもあり、しばらくおしゃべりをして過ごす。いくつかの約束もした。とりあえず流れに乗って、どこにたどり着くか試してみたい。

 

 

昼はENGEKI QUESTのリサーチをしていた。Flingernの近く、フルール通りのあたりをメインに。男の子が立ち止まって微笑んでいる。影の長さをわたしのそれと合わせているのだ。かわいいなー。自転車でぐるぐると同じところを走り回っている2人組の女の子とか。

 

西日を正面に受けながら、ビルケン通りを歩いていく。この都市にはなんとなく物語が生まれる気配が漂っていて、それは、外からやってきた人たちの存在がそうさせているのではないかと思う。人間にはおそらく引力がある。離れたり、近づいたり。ちょうど大道寺梨乃が、イタリアでの生活で感じる「ノスタルジー」について書いている文章を読んだ。ああ、りのと話したかったな(イタリアに行くのはひとまず断念した……)。単に故郷が懐かしい、ということではきっとないのだろう。いろんな人の複雑な感情や履歴が交錯する。それが都市であり、町である。今の家主の写真家は、部屋をアトリエにしているのだが、その壁には、モデルとしてやってきた人たちが絵を描いている。絵は、積み重なっている。それが町だと思うんです、と彼は言った。

 

今回のENGEKI QUESTはいつも以上に虚実入り混じったものになると思う。物語が現実と溶け合うような状態を、この都市では実現できる気がする。

 

 

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デュッセルドルフ滞在記2-5

 

5日目、月曜日。残念ながら早朝に目覚める。日本はもう昼頃だ、とか考えてしまうのがきっとよくないのだろう。去年ここに来て、編集の仕事をもう断念せざるをえないだろうと感じたのも、煎じ詰めればこの時差ボケに起因する。旅と物書きは両立できるけど、旅と編集仕事を両立させるのはとてもむずかしい。

 

ラーメン匠に並んでいたら「英語は話せるか?」と白人系のおじさんに話しかけられる。旅行者らしい。「あっちのラーメンと寿司はすでに試したが、こっちは良いか?」「良いと思う。ただしそれは1年前の話です。なぜなら……」などと話していると、店員に「お二人様ですか?」と訊かれて、なんだか吹き出してしまう。「ええ、今知り合ったばかりですが」。

 


「ニュースダイジェスト」の高橋萌さんがインタビューしてくださった。なんと3時間半超え……。自分がこれまでどんな人たちと出会ってきたか、何を大事にしてきたか、自分が考える芸術の意義、そしてそれらがENGEKI QUESTとどう関係しているのか。そんな話をした。(ポケモンGOとの共通点と違いについても話した。きっとそういう話もしたほうがよいと思って、用意していた。しかしそれ以上に根源的な話をたくさんできてよかった……。)

 

萌さんがデュッセルドルフに暮らすことになった経緯もすごく興味深い。人が移動する時、そこには物語が生まれるということだろう。ある日本人駐在員の妻の話。足を失ったドイツ人アスリートの話。多和田葉子さんの話。……この世界はそれぞれの見える世界=ヴィジョンによって成り立っている。

 

ENGEKI QUESTは個々人のヴィジョンと身体感覚を引き出し、そこに刺激を与えることによって、その未知の可能性をひらいていく。それはおそらく、人間の鬱屈を解き放ち、暴力を解除することにも繋がるだろう。わたしはそう信じる。暴力では、暴力を根絶することはできない。

 

マニラでは究極的にはたぶん雨が、孤独な人々を結びつけた。ここデュッセルドルフでは何がそれを可能にするだろう?

 

 

 

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デュッセルドルフ滞在記2-4

 

4日目、日曜日。もちろん早朝に目覚める。イタリアにいる梨乃のアドバイスに従って、パスタにリベンジ。ニンニクとタマネギをちゃんと炒めただけで、だいぶいい感じになった。

 

あきこさんに導かれて、初の自転車。たぶん海外で自転車に乗るのは初めてだと思う。自動車やトラムのいる車道を走るのはけっこう怖い。けれどドイツでは歩道を走ると罰金40ユーロらしい。乗ってみてよかった。なるほど、町の見え方が全然違ってくる。

 

 

オープンアトリエKunstpunkteで、Soya Arakawaさんのパフォーマンスを観る。ドアが開け放たれ、外の雑音が入ってきまくりのホワイトキューブの中で、カンヴァスに絵の具で線が何度も何度も引かれていく。さらに、こねられた粘土の断片がすりつけられ、奇妙な歌声が響く。ふだん批評家としては、過度に自分のイマジネーションに引き寄せるのはNGだと考えているのだが、今のわたしはちょっと違うモードになっている。このカンヴァスはデュッセルドルフの地図であり、そこに引かれる無数の線は、この都市を行き交う人々の姿に見える。

 

会場で、デュッセルの呑みソウルメイト(とわたしが勝手に思っている)マリエ嬢に偶然再会した。醸造シューマッハで地図を見ながらいろいろ話す。彼女は去年よりもさらに自由になったようであった。けれど、異国での暮らしで自由であるということは、傍目に見えるほどにはラクではないだろう。とはいえ人間はそんなに自分の生き方を選べるものでもない。とにかく彼女は次々とコップを空にしていく。アルトビール五臓六腑に染み渡る。

 

 

 

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デュッセルドルフ滞在記2-3

 

3日目、土曜日。相変わらず早朝に目覚める。アルトシュタットの醸造所シュルッセルにMさんを案内する。彼女とこうして長く話すのは初めて。海外でたまたま居合わせたから仲良くなる、というケースはやっぱりある。

 

土曜日のアルトシュタットは、いろんな人種の人々でごったがえしている。なんか変だな、と思ったら、トラムがほぼ地下化されてしまったのだった。安全になったとはいえ、あのカーブを描いて入ってくる路線がなくなったのは残念……。

 

tanzmesseのクロージングパーティは断念。今はこの都市での生活の足場をつくることに専念したい。そう思って、スーパーマーケットでトマトソースを買って帰宅。パスタを茹でたのだが、ありえない味になった……。

 

 

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デュッセルドルフ滞在記2-2


2日目、金曜日。早朝に目覚める。tanzmesse(ダンスの見本市)に山口真樹子さんがいるらしいので、ライン川沿いをてくてく歩いて訊ねる。2014年に彼女にマンハイムに呼んでもらわなかったら、今自分がここにいることはたぶんなかった。

 

tanzmesseには世界各地から人が集まり、ブースがたくさん出ている。日本からはTPAMと国際交流基金が出展。ヒロミン、タン・フクエン、チョイ・カファイらとも少しだけ話す。旅人・カファイから進行中のプロジェクトの話を聞いて、いい刺激をもらった。どんな刺激を受けたかについては今ここには書かない。

 

アルトシュタットまで歩いて、定期券を購入。52.95ユーロ。やったね。これでトラムもバスも乗り放題に。カフェTENTENで少し作業してから、醸造シューマッハまで歩いていく。すると聞き覚えのある声に遭遇。火曜日のコンサートにお誘いいただく。去年の滞在から、何かがゆるやかに繋がっている。

 

 

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デュッセルドルフ滞在記2-1

 

初日、木曜日。例によって、2度目の都市を訪れる時はナーバスだ。特に今回はいくつかの要因が重なっている。日本から持ってきた仕事のこととか。まだ全然デュッセルドルフ版のテクストを書けてないとか。そもそもこの遠く離れた都市で何ができるのか、とか。この1年でヨーロッパの情勢も大きく変わった。どちらかというとその変化は芳しいものではなく、ENGEKI QUESTにとっては難問でもある。挑戦し甲斐がある、みたいな簡単な言葉で済ますこともできないような。

 

けれど飛行機から、緑あふれるドイツの大地を見て、気持ちが昂ぶった。アジアのそれとは異なるヨーロッパの森であり、田園だった。この土地で生きてきた人たちのこと、その歴史、そして今も人々を生きさせている、この大地の力強さを感じる。

 

 

Sバーンに乗ると、見慣れた風景。去年、この都市を歩きまわった記憶がまざまざと蘇ってきた。懐かしい……。ヨーロッパを訪れてこんなファミリアな気持ちが湧いたのは初めてのことだ。中央駅でトラムに乗り換えて、あきこさんの家へ。お久しぶりのような、そうでもないような不思議な気分。おかえり、と言ってもらえるのが嬉しい。

 

疲労困憊ではあったけれど、アルトビールが呑みたい。miuさんに無理を言って、少し散歩してから近くのバーへ。この1年のお互いの変化について話す。ある男の子との出会いについてmiuさんは語ってくれた。もしや、と思って苗字を訊いてみたら、やはりそれは、足の長い男の子のことだった。

 

 

 

 

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中国・近況報告その5

「私の働いているスペースに遊びに来ればいい」とダミンが誘ってくれたのだが、その場所は、なんと訪問予定に入っていたPSA(Power Station of Art)だった。午前中は、マッサージ店という名の売春街か、ナイトマーケット跡地、あるいは朝市に向かうつもりだったけど、せっかくなのでダミンと話したいなと思い、ひと足先に地下鉄でPSAに向かうことに。最寄り駅に着いてみると、遠くからPSAの異様な煙突が見える。元は発電所だった建物が、今は美術館になっているのだ。社食をご馳走になり、中国のこと、日本のこと、未来のことなどをダミンと話す。午後には他のメンバーも合流。PSAが去年から始めた演劇ブランド「聚裂 ReActor」というプログラムについて聞く。そこにラインナップされた作品は極めて実験的で興味深いもので、特に組合嬲というカンパニーの観客への挑発ぶりは凄い。多田淳之介のラディカルさを思わせる。

 
 
夜のレクチャー&会食には、その組合嬲創設者であり演出家であるチャン・シェンが現れた。老齢に差し掛かった、穏やかな顔つきのおじさまだが、「伝統的な演劇の貞操を破りたい」と言う彼の思想や活動はとても刺激的で、誰かに心酔するということはまずないわたしだが、惚れそうになった。通訳・速記泣かせとして有名らしく、その怒濤の語り口をシンシンが頑張って通訳してくれた。検閲を潜り抜けるための彼の知恵、そして批評精神には目を瞠るものがある。「わたしはあなたからもっとたくさんのことを学びたい」と言うと、チャン・シェンは、「学ぶのではなく、友だちになるのがいい」と言った。
 
 
 
PSAで観た展示、Boonsri Tangtrongsinの『Superbarbara Saving the World』に胸を打たれた。ダッチワイフのスーパーバーバラが、この世界のために我が身を犠牲にして様々な献身的行為をする。何度も、何度も、その献身は繰り返される。それはまったくの徒労でしかない。しかしバーバラはへこたれることなく、何度も、何度でも、みずからの股間にある女性器から産まれ直すのだった。
 
 
 
 
上海には遠くないうちにまた来ることになりそうだ。あとはこちらのスケジュール、意欲、交渉次第。北京に比べて商業主義寄りだと聞いていたけれど、百聞は一見に如かず。実際にはかなり実験精神に溢れた土壌があり、アメーバ的な活動が根を広げつつあるようだ。そのバブル経済のゆくすえは不透明ではあるけれど、ひとまず今、ここに夢があるのは間違いない。上海ドリーム。横浜、マニラに続いての活動拠点になるだろうか。
 
演劇最強論in中国のパートナーである徳永京子さんに感謝。そして何から何までアテンドしてくださった日本文化中心(国際交流基金)の後井隆伸さんと呉珍珍さんには、足を向けて寝られない。
 
 
 
飛行機で、隣のおばちゃん姉妹が豆をくれた。神戸に移り住んで28年になるという。それぞれ日本人と結婚したが、姉は中国籍で、妹は日本籍。「中国と日本には喧嘩してほしくない。政府だけが喧嘩をしている。私たちは喧嘩していないのに」
 
 
1時間機内で待って、ようやく飛び立った機内から揚子江が見えた。それは、もはや川とかいうレベルではない何かであり、それ自体が巨視的な意志を持っているかのようだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

中国・近況報告その4

上海、ヤバイ! 意識を高揚させられる何かがこの都市にはある。今日の上海話劇中心でのレクチャーはライブ中継もしてもらったのだが、延べ60000人超、最大瞬間風速は4000ビューを超えたらしい。さすが中国……。詰めかけてくれて立ち見まで出た5、60人の観客たちの反応も身近に感じた。

 
遡って昼間は美術館MCAMへ。キュレーターのフーさん、ワンさん、カさんらと話したのだが、当初予定を大幅に超えて3時間半くらい話し込んでしまった。ホワイトキューブでもありブラックボックスでもあることを意識したという、元々は工場だった空間も素敵で、きっとここで腕をふるってみたい日本の演出家はいるだろうなと思ったし、わたしもなんだかワクワクした。とにかく話が面白かった。もしかすると演劇よりも現代美術系のほうが、日中の共通言語があるのかもしれない。コミュニティアートについてもだいぶ話した。上海でもっと仕事してみたい。それは非現実的な選択肢ではないと感じる。
 
夜は、上海話劇中心の佳代さん(中国人です)にご馳走になった。とても美味しかった。去年、地点のワークショップの通訳だったエミーも来てくれた。エミーがいる時のシンシンは普通の女の子に戻ったような顔をする。
 
だんだん、少しずつ、人々の素顔の一面が見えてきている。2回目、というのはやはり大きい。そう、ダミンもレクチャーに来てくれた。彼女に初めて会ったのはドイツのマンハイムで、去年再会し、バイクの後ろに乗せてもらい夜の北京を疾走したのだった。気持ちよかったなあ。ポンハオ劇場で働いていたホイホイさん。そして去年、Kさんが「我爱你」と言って口説いていた女性も姿を現した。レクチャーの後で彼女はしばらく入口のあたりに佇んでいたのだが、それはたぶんわたしを待ってくれていたのである。彼女は、私のことを覚えていますか?、と言う。それに対して、もちろんですよ、元気でしたか?、とわたしは応じるはずだった。しかし後片付けをしたり人につかまったりしているうちに彼女は黙って姿を消してしまった。彼女は一抹の寂しさと諦めをもってエレベーターを降り、夜の上海に消えていったのである。結局彼女が何者なのかよくわからないままなのだが、とにかく、彼女たちの時間がちゃんとこの世界で流れているのだという当たり前の事実をあらためて知ることができて嬉しい。ひとりの人間が認識できる領域はごくわずかにすぎない。体験できることも。分身の術が使えない以上、すべてを把握することはできない。そのことが愛おしい。人生は断念の連続である。だがこうとも言える。人生は運命の連続である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

中国・近況報告その3

タンユエン・リー(藤原力)として活動して5日目、ついに上海に辿り着いた。しかしネットの調子が最悪で仕事にならない。この日記もいつアップできるかわからない。意気消沈。とはいえ、逆境を楽しむことにかけてはわたしもそれなりに定評がある。

 
 
今日は早起きして、北京から杭州に飛行機で飛んだ。杭州は湖や湿地帯が広がっていて、「天には楽園があり、地には杭州がある」と言われるくらい、風光明媚な場所として栄えてきたようだ。この湿地帯に劇場がある。去年できたばかりの新しい劇場。ディレクターのイリンさん、そして若いスタッフのパパンとマニンが迎えてくれて、高級ホテル(G20では安倍首相も宿泊するかもしれない)でランチをご馳走になる。杭州料理を食べるのはおそらく初めてだが、とても美味しい。
 
実は杭州には少し寄るだけで、早々に上海に移動する予定だったが、イリンさんたちとの話が盛り上がりすぎてしまい(というか、彼女らの我々に対する好奇心は予想以上に大きく)その場で予定外の映像インタビューを受けることになった。それも、ひとことメッセージを言うだけかと思いきや、かなり根掘り葉掘り日本の現代演劇について訊かれたのである。
 
 
西湖の湖畔にあるレストランで晩御飯。ここは白蛇と青蛇の伝説で有名な巨大な湖らしく、シンシンはその地を訪れることができて興奮していると言う。こちらでは西遊記と並んでとても有名な伝説で、実写版のテレビドラマにもなったらしい。
 
 
高速鉄道で1時間ほど。いよいよ上海へ。駅からはタクシーの長蛇の列。ひとり、年老いた物乞いがその列にぶっこむような形で寝ていた。なるほどここだと、ただ半裸で寝ているだけでも結構な金額が集まりそうだ(しかも彼がいる場所はほどよくクーラーのあたるベストスポットだった)。
 
ホテルのネットの調子は北京よりひどい。と冒頭に書いた。仕事にならないので急速にやる気が失われ、そして結局今日もまた予定より働いてしまったので、冷蔵庫に置いてあったバドワイザーを呑んだら、ばたんきゅー。あっという間に眠りについた。
 
 
 
 

中国・近況報告その2

今回の滞在は自由時間がほとんどない。タクシーを使い、言葉もほぼ全部通訳してもらって……とシンシンたちにアテンドされるがままになっている。マニラの友人たちがこんな受動的なわたしを見たら驚くだろう。しかし今回は批評家モードに集中せざるをえない。今は、朝から晩まで人と会って話している。

 
 
北京最後の日となった今日4日目は、まず朝、ポンハオ劇場で徐健さんにヒアリング。体制内の媒体の記者と事前に聞いていたから、どんなコワモテの人かと思いきや、とても柔軟な人だった。我々の中国演劇への理解をかなり深めてくれた。彼によると、中国の演劇界ではこんな言葉が流行っているという。
 
「命を愛するならば、劇場から遠ざかれ」
 
 
午後は孟京輝の演劇(女優のひとり芝居、2時間)を観る。前に観た作品よりも様々なことを考えた。
 
 
その後、第九劇場で陶慶梅さんにヒアリング。中国のここ30年の小劇場について本を著した研究者で、日本のF/Tでレクチャーをしたこともある。2000年から北劇場という小劇場の立ち上げに関わり、そこから遡って小劇場について調べ始めたのだという。1982年の林兆花演出の『絶対信号』が彼女の研究のスタート地点となる。そのあと90年代後半にかけて孟京輝たちが台頭し、現在まで力を持っている。しかしそのあとの世代については、内面のモチベーションが足りないのではないか、との話だった。
 
 
……他にも書き記したいことは山ほどあるのだが、もう疲労困憊で明日6時起きなので今夜はこのへんにする。とにかく、今回の滞在でようやく、中国現代演劇の何たるかにアクセスできつつあるのを感じる。サポートしてくれるみなさんのおかげやで。
 
 
しかしな、若干ビールは呑みすぎているな(薄いやつを)。
 
 
ホテルの前にある酒屋の、朝から晩まで半裸でたまにハイテンションになるおっちゃんとも、今夜でお別れだ。
 
 
 

中国・近況報告

 

北京滞在も3日目が終わろうとしている。徳永京子さんと共に、日本の現代演劇の状況を伝え、また同時に中国の演劇状況について知るための仕事で来ている。遣唐使や遣隋使も、こういう感覚だったのかもしれない。滞在しているホテルはネット環境があまりよろしくなく、そもそも日本で流通しているSNSも(抜け道を使わないかぎり)見られないので、現在の日本の状況からは著しく乖離している。2年目の北京訪問だからこその困難も感じている。ただ、初日にヒアリングをした中間劇場の王林さんの毒舌話が刺激的だったこともあり、調子は悪くない。

 
2日目は、今回の北京側の聞き手であるスン・シャオシンとチェン・ランとたっぷり話せた。彼らは何度か日本にも来ており、日本の演劇の状況についてもかなり知識を持っている。
 
今日、3日目は、徳永さんとレクチャーを行い、彼らに聞き手になってもらった。彼らを指名してよかったと思う。受付開始10分で速攻で予約が埋まったという聴衆たちにどこまで届いたかは不明だが、少なくとも中国の気鋭の批評家とジャーナリストにかなり詳細な情報を手渡すことはできた。今後もこうした対話は続いていくだろう。今日はその大きな一歩になった。
 
会食を経て、最後はホテルの庭で後井さんたちと少し呑む。林さんから聞いた「理論自覚」という概念は興味深い。みずからの美術史的な位置付けを自覚し、その認識によってみずからの活動をアピールしてマーケットに売り込むことをそう呼ぶのだという。10年ほど前から、中国の現代美術が海外に売れるモードになっており、「理論自覚」の若いアーティストや学生も増えているらしい。もちろん、口が達者でも作品が面白いとはかぎらないわけである。
 
前回滞在に続き、アテンドをしてくれているシンシンは、この仕事をもって退職し、フリーランスに転向するとのこと。なんとも寂しい。でもきっとまたどこかで一緒に仕事ができると思う。
 
 
これを書いているあいだに寝落ちしてしまった。相変わらず、夜の町を徘徊する夢を見るのだが、このいつもの町は少しずつ形を変え、また巨大化もしており、各地の文化習俗が入り混じっていて、どこの国であるかはよくわからない。もしかするともう国家や国境というもののない世界なのかもしれない。朝は、砂浜でテロリストに襲撃される夢を見て、目が覚めた。わたしは死んだ。だがわたしは生きていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

緊急ミーティング「政治、いや芸術の話をしよう」関東編を終えて

 

ご来場くださったみなさま、行きたいと表明してくださったみなさま、ありがとうございました。

 

正直、これまで人前で話した中で、最もヘビーな体験になりました。それ以前のベスト・オブ・キツイは、たぶん東京デスロック『シンポジウム』の最初の何日目かだったんですけど。どちらも会場がSTスポットってのは偶然ではない気がします。

 

あの空間では、嘘をつけない。自分の正体が顕わになる。ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)が最大化される。そう感じるのはわたしだけでしょうか?

 

 

会場に満ちているエネルギーには異様なものがありました。途中で「これは墜落するぞ」と予感しました。事前に「お客さんにサービスしすぎない(なぜならお客さんではないから)」「ジリジリする時間をわかりやすさで埋めない」と決めていたことに加えて、あの場に入ってから身体が「要約しない」「人の話を遮らない」状態に入ってしまっていたので、これはもう潔く墜ちるほかない。とはいえお声がけした人たちをいたずらに怪我させてはいけない。パイロットとしての職務は全うしなければならない。そうして不時着できる場所を探しているうちに、雲海に突っ込んでいったような感覚です。そのまま深夜の打ち上げまで雲の海は続きましたが、最終的には、ラピュタのようなものを発見しました。たぶん。

 

それについて今は語りませんが、自分の今後の生き方には著しく影響しそうです。

 

 

あらためて、集まった人、発言した人、何か言おうとして声帯を震わしかけた人……ありがとうございました。詰めかけてくれたひとりひとりが何かを考えていた、という事実を噛みしめます。

 

ゲストスピーカーの捩子ぴじんさん、山田由梨さん、危口統之さん、大道寺梨乃さん、共同呼びかけ人の桜井圭介さん、そして場を提供してくださった佐藤泰紀さんとSTスポットのみなさん。本当に感謝しています。

 

さらには、メッセージを寄せてくださった松井周さん、山本卓卓さん、中野成樹さん。遠方から応援の言葉をくださった岡田利規さん。ありがとうございました。

 

 

話した内容は、文字にして残したいと考えています。

 

 

明け方頃になって、「ちからさん、もう踊るしかないッスよ!」と佐々瞬氏に言われ、ハッとしました。確かに、フィリピンでもドイツでも踊るのに、なんで日本では踊らないんでしょうかね。踊りたい。

 

 

22日の関西編につづきます。

http://gekken.net/atelier/pg538.html

 

 

 

 

マニラ滞在記4-8

 

マニラ滞在30日目、火曜日。最後の日である。Natsukiと一緒にタクシーで空港に向かう。JKたちが見送ってくれる。名残惜しい。わたしはすでに彼らを家族のように感じている。いつわたしはここに戻ってくるのだろうか? 途中で、電柱でポールダンスをしているおじさんを見た。わたしはマニラを愛することができる。

 

タクシーの中で、「これからどう生きていくか?」についてNatsukiと話す。わたしはどうしよう? とりあえず、まずはダバオに行ってみたい。ドゥテルテ大統領の都市へ。ミンダナオ島へ。わたしはまだフィリピンのごく一部しか知らない。それはアジアのごく一部。世界のごく一部。

 


飛行機で隣の席に座った男は、イスラム系に見えた。何ヶ月か前に、ある女性が「隣の男がISにメールしていた」と証言して飛行機を止めた事件を思い出した。あの事件は結局、白だったのか、黒だったのか? わたしは確かに隣の男に恐怖していた。もしも彼がテロリストだったとしたら……? 

 

わたしはたぶん、それなりにリベラルな思想の持ち主である。それでも、こうして、他者を恐怖する。イスラムという他者を。偏見と憎悪が世界に蔓延している。この後でわたしが行くヨーロッパでは、それはもう避けては通れない問題になっている。今日もどこかでテロが起きている。人々が殺されている。わたしはいつ死ぬのだろうか。殺されないで、天寿をまっとうすることはできるのだろうか。最善を尽くそう。だが、わからない。わからないことだらけだ。ひどい時代になった。ひどい世界になった。今はもう第三次世界大戦と呼ぶこともできるだろう。「銃後」のない戦争。国と国との闘いではなく、いつでもどこでもテロが起きる戦争。そんな戦争の中を、飛行機は飛んでいく。とりあえずの休息の地である日本に向かって。日本が安全だから一番だと多くの日本人は言う。しかし日本もいつまでも安全地帯ではいられないだろう。隣の男はわたしに、「ペンを貸してくれませんか?」と頼んできた。彼は、彼の職業や国籍について、紙に書いていた。わたしのペンを使って。わたしはその文字を読み取ることができなかった。

 

その時、初めて、わたしは彼の顔を見た。

 

 

 

 

 

 

▼同じ日の石神夏希さんの日記

http://natsukiishigami.com/2016/06/p14-2/