BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

韓国・安山滞在記2日目


なんせ毎日オン・ザ・ストリートで体力使うので、日記は書き流そうと思う。

 

昼から電車演劇『Untitled Train』へ。コ・ジュヨンさんから噂を聞いて、プロデューサーのパク・ジスンさんに話を通してもらった。中央駅から20〜30分ほどで、受付会場のシュリサン(修理山)駅に到着。郊外の団地街といった風情で、教会もいくつか目立つ。早く着きすぎたので駅の周辺をぶらぶらしていたら、奇妙な壁画を発見。老婆が、何かにレジストするにつれて怒りを露わにし、若返っていくというもの。壁に書かれてある韓国語を解読したところ、やはり「平和の少女像」とあった。日本人の末裔として、かなり複雑な気持ちになる。

 


駅のホームで『Untitled Train』の受付。ジスンさんから英語で説明を受ける。自分のスマホを預けて、代わりに専用のタブレットを受け取り、ヘッドホンをつける。時が来たらタブレットのスイッチを入れ、タイミングが来たら次の車両へ移動してくれという。うん、たぶん大丈夫。とはいえ韓国語の上演だし、電車は待ってはくれない。できるだけ仲間をつくっておこうと思い、フェスティバルのボランティアスタッフに日本語は話せますかと尋ねてみるものの、言葉が通じない。すると観客として来ていた10代くらいの女の子が、私はあなたのこと手伝えると思う、と申し出てくれる。ありがとう、じゃあ困ったら君についていくね。

 

10-4というホームの端っこから乗車(10-3から乗車したグループもあった。観客は10人ほど)。一般の乗客は、ヘッドホンで武装しタブレットを凝視している我々の登場にややギョッとしている。しかしだんだんその警戒心も好奇心へと変わっていった。タブレットには安山の地図がスタイリッシュに表示され(蜘蛛の巣のようなサークルが印象的)、韓国語のナレーションが流れる。残念ながらその物語は理解できないが、新聞記事の切り抜きなどの映像があり、安山の歴史が語られているのだな、とは推測できた。

 

やがて順番に、隣の車両に行くようスタッフに促される。次の車両に移ると、タブレットに、今わたしが見ているのとほぼそっくりな電車内の映像が映し出される。さっきの女の子が、タブレットの映像を実際の風景に重ね合わせるのよ!、とサインを送ってくれる。なるほど、タブレットのフレームと、自分の視界のフレームを合わせていけば、観客は自然と車内を動いていくことになる。つまりこのタブレットの視界(カメラの視点)が、観客を動かすインストラクション(指示)になっているのだ。これは面白い。

 

タブレットの中ではパフォーマーたちが何かを演じている(やはり韓国語)が、いつかの日の一般の乗客も多数、写り込んでいる。そして当たり前だが今ここの目の前には実際に乗客がいるわけで、今ここと、いつかどこかが、二重写しになっていく。

 

いくつか車両を渡ると、さっき映像の中にいたパフォーマーたちがそこにいて、ダンスというか奇妙な動きをしている。もはや車内は、奇異を通り越してカオスになっていた。しかし多くの乗客はその光景を面白がっており、なんと何人かは一緒に踊り始めているのだった!

 

新吉温泉駅で下車。温泉という名がついているけど、温泉はない(理由はwikipediaを参照)。改札手前の広場で、一緒に降りたパフォーマーたちが音楽に合わせて踊る。木材でつくられた不思議な形状のおもちゃを使って。やがて観客もそのおもちゃで遊ぶように自然に促される。今日初めて出会った他の観客と一緒に。すでに電車内でだいぶ「見られる」という異質な体験をしていたので、スッと身体が反応する感じがあった。後で演出・コンセプトのキム・ボラム(Kim Borahm)さんが話してくれたところによると、このラストシーンは「都市に新しく住もうとする時、人はそこを自分の場所として作り変える。その感覚を体現したかった」とのこと。(←だいぶ端折ってます。)

 

ボラムさんはクレバーで鋭いという印象ではあったけれど、流暢に英語を話すからといって逡巡がないわけではない。リサーチの期間を通して得たもの(得られなかったもの)がその語りの中に含まれているような気がした。「最初、この作品をつくるにあたってどうしていいかわからず、とりあえず安山を歩いた。ソウルから電車に乗って通っているうちに、あ、電車の中でやろう、と思いついた」という。わたしも『演劇クエスト』をつくるにあたって、コンセプト先行ではなく、まずはとにかく歩いてみる、ということを基本にしているので、勝手に、仲間を見つけたような気分になった。

 

プロデューサーのパク・ジスンさんにも御礼を。彼女は金沢と高知の美術館が組んだ『ONE DAY, MAYBE いつか、きっと』にも関わっていたそうだ。TPAMにも何度も来ているらしい。彼女たちとその作品に出会えただけでも、今回来てよかったなと心から思う。

 


わたしはこの『Untitled Train』は演劇だと思うし、少なくとも演劇の文脈で語れることはあるけれど、おそらくは特にこれを「演劇」と呼ばなくてもいいのだろう韓国をちょっと羨ましくも感じた。まあいい。隣の芝生はいつだって青いのだから。

 

それよりも今自分がこの作品を特に「演劇」と名指す必要を感じてない、という現象のほうが興味深い。わたしは幾分かは「演劇というジャンル」に幻滅しているのかもしれない。いやもちろん、演劇を必要とはしている。それは間違いない。

 

 

* 

枠組みというのは、自由になるために用いるのであって、足かせをつけるためにあるのではない。

 


メイン会場の安山文化広場へ。天安門広場……? いやもっとか。でっかくて長いストリートだ。車両も通行止めになっており、歩行者天国が実現している。そしてそこかしこでストリートパフォーマンスが同時多発していて、めっちゃ人がいる。まずその規模にびっくり。安山市30周年(短い!)の威信を賭けたイベントなのだろう。さっきまでの、わずか観客10人の世界とのあまりの違いにめまいがする。同じフェスティバルなのだが、こちらは親子がきゃぴきゃぴ楽しんでいる。なるほど全作品がなぜ無料なのか、少し腑に落ちた。

 

どこも人だかりで、飯屋やカフェも行列が……。コンビニでおにぎりと麦酒を買ったら、おにぎりが激辛キムチ味で、ダメージを受ける。いくつかのパフォーマンスを観たが、アリス調のセットを組んだUMDALDA『ドクターラルラルラの不思議な病院』が特に目を惹いた。きっとそれが、音楽や身体技能だけでなく、フィクションの力を使っていたからだろう。

 


完全な日常でも、完全な非日常でもなく、日常と非日常を行き来するようなものがいい。

 

ただ場所を使うだけではなく、そこにあるものを使うことで、都市に眠っている深層に触れるようなものがいい。

 


……とか考えながら、夕刻になり、ようやく空いてきたカフェでハニーレモンティーを頼んだら、タピオカ入りのジュースが出てきた。うーん、韓国語の勉強は必須だな。しかもそのジュースでちょっとお腹を壊したという。

 

(1)リサーチ(2)観劇(3)日記=記録(4)その他の仕事、を滞在期間中にこなすだけでいつも精一杯で、語学に手が回ってないのがよくない。優先順位をあげなくては。

 


ところで安山の人たちは今のところ、わたしが日本人である、ということにはほぼまったく関心を示さない。しかし不快な目には一度も遭っていない。

 


オープニング・セレモニーは凄かった。広場を挟むビルの屋上に、白い天使に扮した人間たちが陣取り、そこからワイヤーをつたって空中乱舞を繰り返す。やがて巨大な天使の風船が登場し、空中から白い羽毛が大量に散布され、広場は羽だらけ……。凄いスペクタクルだったのだが、ただ観るだけでなく、観客たち(何千人いただろうか。もしかしたらもっとかも?)がやがてそれぞれの日常を見せ始めるのが面白かった。彼らは、恋人や、友人や、家族と共に、騒いで、その私的な顔を晒し始めたのだった。この空中乱舞によって、都市は劇場となったのみならず、何かそれ以上のものになったような気がした。

 

このイベントによって安山の婚姻率や出生率が明日からあがるのではないかと思うくらい、幸せが振りまかれていた。この国には夢があるんだな。首都ではない都市でこれだけのお祭り騒ぎをできるというのは。日本もオリンピックで、そういう夢を捻出しようとしているのかもしれないけど。

 

芸術監督のユン・ジョンヨン(YOON Jong-yeoun)さんに思わずハグして感動を伝えた。「ハハハ、クレイジーなだけだよ」と彼は笑っていた。

 



いっぽうでこのフェスティバルに、『Untitled Train』や、セウォル号事件に触発されている『安山巡礼道』が組み込まれているのは重要なことだと思う。多数をハッピーにする作品と、少数かもしれないがこの世に必要と思われる作品とを、うまく併存させていくということが、これからのフェスティバルの戦略になっていくのだろうか?

 


わたしはやっぱりいつも暗い闇に包まれた人のことを考えてしまう。家族連れで仲良くここに来られる人たちは、まだしもハッピーなのではないか。トルストイが『アンナ・カレーニナ』の冒頭に記した「幸福な家庭はみな似通っているが、不幸な家庭は不幸の相もさまざまである」という言葉がいつもひっかかる。これはただの呪縛だろうか? 21世紀の今となっては、もはや古臭い19世紀の怨念にすぎないのだろうか? とはいえ今だって闇に包まれた人は、共感できるような似通った物語を与えられないまま、いつも見えない、陽の当たらない、名前のつけられない場所にいるのだと感じる。

 

楽しいイベントがこの世にあるのはいいけど、自分の仕事の主戦場はそこではない。

 

いったいどうやって、闇の中にいる人たちに届けられるか、何を届けられるのか、と時々考える。いつもは考えない。いつも考えていたら身がもたないし、君たちが生きようが死のうが知ったこっちゃないよという気持ちもある。じゃなかったらただの偽善者になってしまう気がする。闇に完全には引きずり込まれないために、わたしはわたしを正気に保つ必要がある。闇と繋がりながら、闇と離れていなければ、おそらくわたしは自分の仕事を遂行できない。

 

ただ、かつての自分はこの場には到底来なかっただろうな、と思うことがよくある。それは劇場もそう。高い金を払って劇場に来られるのは、やはりそれなりには不幸のどん底を脱した人ではないだろうか。別に不幸度合いの話をしたいわけではない。ただ歴然と、来られない、という事実。集客数を増やせばその人たちに届くわけでもないから、わたしは数にはほとんど興味がない(ただ、ハイバイがすごく売れて岩井秀人の作品がさらにたくさんの人に届いてほしい、とかは考える)。

 

小劇場になら、もしかしたら行っただろうか? 自分がもしも京都に住んでいて、たまたま演劇が面白そうだと感じ、地点のアンダースローの存在を知ったら、行ったかもしれない。ちょっと恥ずかしいなと思いつつ、ネットで調べて、「カルチベートチケットありますか?」と受付で尋ねて、心して演劇というものを観たかもしれない。

 


夜は、チェーン店っぽいところはやめようと思って、ホテルのすぐ裏の食堂へ。英語はまったく通じない。身振り手振りで(優しい)店員さんとやりとり。サムギョプサルは2人前からだというので、冷麺をつくってもらう。麦酒を1本入れて、ちょうど10000ウォン(約1000円)なり。

 


結局だいぶ書いてしまった。明日からは短めにします。

 

 

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