BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20140729 『演劇クエスト』についての所感

 

本来の順番からすればここでマンハイム滞在3日目のレポートが入るはずだけれども、「日記を時系列で順に書く」という縛りを、いったん無くしてみることにした。カオスを招くかもしれないが、今は、血、言葉、アイデアをめぐらせることを優先したい。

 


長者町のいつもの中華料理店Kに行くと、Oさんと、黄金町の某家で猫シッターをしているというSちゃんに偶然ばったり。Oさんとお会いするのはマンハイム以来で、紹興酒など飲みながら、グールドの鼻歌やアーサー王物語について話をした。そこから(たぶん)大事な話もしたのだが……この日Kに集まった理由は別件で、『演劇クエスト』のフィードバックと今後の展望をスタッフと話し合うためだった。ここではそちらの話を書いておきたい。熾烈な睡眠不足の日々が終結し、ゲシュタルト崩壊寸前の状態でしばらく呆けていたが、開催から2週間が経ち、自分の中でもようやく像が結ばれてきた。

 

 


7月12日に行われた『演劇クエスト・京急文月編』に関するツイートは @chaghatai_khan さんがまとめてくださっている。良い意味で予想を裏切られて楽しかった。こうやって様々な反応やエピソードが発生する、ということ自体が、この『演劇クエスト』の最重要ポイントなのだと思う。参加者は何かしらの体験をするが、それは別の誰かと同じではありえないし、それらのできごとは、俯瞰することも網羅することもできない。そしてもちろんこの他にも、可視化されていない体験が眠っている。

http://togetter.com/li/692042

 

終盤、三浦海岸のモツ煮屋に集結してワイワイ語り合った人たちがいたらしい、と聞いて、わたしは嬉しく思った。もちろんそれが唯一の正解のゴールではないし、人によって千差万別の体験があり、それぞれが貴重なものだと思う。ただ、見知らぬ人同士がなぜか半島の端っこに集まって語り合っているという、その(わたしから遠く離れた場所での)饗宴の様子を想像すると、楽しい気持ちになるのだ。それは、ただの受動的・刹那的な「消費者」ではなく、もっと柔軟に作品と関わる「参加者」としての、新しい観客の姿を感じさせてくれる。


今回、「何かパフォーマティブなことをやってみない?」と声をかけてくださったblanClassのみなさん、そして「三浦半島を舞台にしたい」というこの素っ頓狂な試みに関わってくださったたくさんの方々に感謝します。

 

 

▼ 

少し裏話的なことを書いておくと、「冒険の書」のシステムは、逗子の海岸にフィールドワークに行った時にふっと閃いたアイデアで(いつかゲームブックを作りたい、という願望は小学生の頃からあった)、それを思い付いた時に、これはもしかしたら今回の単発で終わるのではなく、長期的にやっていくことになるかもしれないぞ……という予感もなんとなく生まれた。それもあって、今回の「京急文月編」では、まずその端緒となるようなシステムを設計することに、限られた時間と労力を注ぐことにした。ある世界観を構築することで三浦海岸を別の色に染め上げるという手も少し考えたけれども、(その能力があるかどうかは別として)少なくとも今回はその方向性には向かわないことにした。とにかくシステムを作ろうと思った。

 

冒険の書」はそのシステムの骨組みのようなものだ。あそこに書いたことのほとんどは実際にひたすら足を運んで得たものであり、結果的に、見知らぬ土地に入った時のアンテナの張り方を鍛えていくことになった……かもしれない。ほんとに馬鹿みたいに調査のために通ったから、わたしとしては三浦半島はそれなりに特別な土地にはなった。親しい人もできた。けれどもその一方で、この土地だけに縛られない、汎用性の高いシステムをつくりたいという欲望もあった。

 

それはおそらく……人間は、ある土地に足を付けなければ生きていくことはできないが、と同時に、どんな土地にも縛られない自由を持っている、という基本的な理念がわたしの根っこにあるからだとも思う。執着することだけが愛ではない。移動可能性を高めていくことと、何かを愛することとは、必ずしも相反するものではない……ということは、いろんな土地に行って、その土地で起きていることを目撃し、記述するという仕事を続けているうちに、確信に近いものになりつつある。(もしかするとわたしは、自分の人生を賭けて、そのことを証明しようとしているのかもしれない。)

 

 

それはさておき。反省点は大きく3つ。

1)
まず、議論が紛糾し、最終的に深夜2時半にまで及んだアフタートークに関しては反省もしているが、起きたことは起きたこととして受け止めたい。あらためてシンプルに考えれば、「参加者による体験のフィードバック」と「作り手に話を聞くアーティストトーク」はまったく別のモノなわけで、今後はそこは明確に切り分けようと思う。そしてできるだけ(必要がないかぎり)自分は面前には出たくない。


2)
それから、できれば参加者には(最初に再三、警告した通り)ソロかデュオで行動してほしかった、というのは作った人間の意図としてはあった。そうでなければおそらく一気に注意力や解像度が下がる仕組みになっていたはずだ(個々人の問題ではなく、システムの問題として)。いっそのこと、絶対的なルールにしたほうが良かったのだろうか? そうしなかったのは、その選択も含めて参加者に委ねたかったからだが、しかし複数人で歩いたという人にもそれはそれで固有の(皮肉でもなんでもなく)きっと素晴らしい体験があったはずだから、それも含めての『演劇クエスト』だと思うことにしたい。今後どうするかはまた別途考えるとして。

 

この点については、かつて鈴木直人氏の名作ゲームブックドルアーガの塔』(1986年)において生じた「無限アップ論争」にも通じるものがあると思う。本の中に、無限でレベルアップできる箇所があり、それはシステムの欠陥なのかどうかが話題になったのだった。当時わたしは9歳だったが、この本は貪るように読んでおり(続編の発売のなんと待ち遠しかったことか……近所の本屋を毎日覗いて待っていた)、このシリーズの本に挟まれていたフリーペーパー上で交わされていた論戦もうっすら覚えている。そして最終的に、わたしの尊敬する作者が次のような宣言をしたことは、とても大事なことだと思う。

……同様の批判に対し、著者の鈴木は「経験値の制限は簡単だが、敢えて数か所ではずしてあること」「読者を信頼して本の世界での自由を与えていること」を語っている。そして、不正をさせないシステムにのみこだわることは、読者への愚弄であると結論づけている。(wikipediaよりの引用)


3)
もうひとつ、今回の演出方針としては、「演劇の天使」と位置づけた俳優の存在にもできれば気づいてほしかった。そのほうが演劇的な効果はかなり(おそらく格段に)増したはずだし、結果として「これは演劇なのかどうか?」という疑問もかなりの部分、解消されただろう。しかしながらこれはひとえに、井土ヶ谷駅に参加者が殺到して券売機が混雑する……という条件を読み切れなかったわたしの甘さによる。直前に参加者が一気に増えたこともあり、シミュレーションしきれなかったのだが、そこがクリアできた状態で俳優がどのように機能するかは見てみたかった。

 

俳優たちは、少ない事前準備にも関わらず、すごく良いパフォーマンスを発揮してくれたし、彼らの個々のポテンシャルを再発見できる貴重な機会にもなった。ぜひまた今後も一緒に何かやれたらと思う。これに懲りず、どうぞよろしくお願いします。


そのほか、地域住民との関係の持ち方や、時間設定、天候への対応、空間の使い方、費用対効果、分業をどうするか、テクストの精度、「呪い」の解き方とその是非について……など課題は山積みだけれども、今は割愛したい。

 

 

ところで、参加者のひとりである深野一穂さんという方が、『演劇クエスト・京急文月編』での体験をブログに書いてくださっている。深野さんとはヨコハマトリエンナーレのサポーター活動を通して知り合ったが、横浜市内を中心に様々な場所を日常的に散歩(遊歩)されていて、土地の歴史にも詳しい。しかもただの情報ではなく、実際に歩くことでそれを捉えている聡明な方だ。

http://ps-chat.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/bricoka-13df.html

 

非常に興味深い論点が提示されている。

 

まず「偶然性の演劇」と呼んでくださっている点については、わたし自身は『演劇クエスト』は「蓋然性の演劇」だと考えている。つまり「何かが起きる可能性を高める」ということを意識していた。何かが100%必ず起きる、という設計にはしてないし、かといって、まったくの偶然に任せるということもしていない。例えば、最初に引いてもらったタロットカードとその設定は当然、人によって当たり外れはあったはずだし、深野さんが引いたように、誕生日の人に「自分へのプレゼント、何か見つかりましたか?」という質問が手渡されるなんてことは、いかにもできすぎた奇蹟のようにも思える(でもこれも、実はタロットカードの魔女が手品を使って作為的に渡したのかもしれない)。しかし「蓋然性」という観点から言えば、そうした奇蹟的な「偶然の一致」が起こりやすいシステムを作ることは可能ということになる。


それからもうひとつ重要なこととして、深野さんピーター・ブルックの『なにもない空間』を引用して分析してくださっている点。……要するに、「見つめる人=観客はどこにいたのか?」という問題だが、これについては現時点では次のような仮説を考えている。つまり、深野さんの体験談をそのブログを通して読むという行為によって、実はわたしが(あるいは他の読者が)深野さんの「上演」を事後的に「見つめ」ているのではないか?

 

 

ともあれ実際やってみて、参加してくれた40人からのいろんな感想がありつつも、楽しんでくれた人たちがかなりいた、という事実には勇気付けられています。ありがとうございます。

 

『演劇クエスト』と名乗るかぎり、「これは演劇なのか否か?」という(どこかで聞いたことのある……)問いが発生してしまうのは避けられない事態だろう。それはこの作品にとって幸せなのかどうか? 今後、名称をどうするか、正直迷う。ただ、 @chaghatai_khan さんがさっそく「演クエ」と略してくださったりもして、あ、その呼び方わりと可愛くていいな、とは思っているし、もうちょっとこだわってみたくもある。


冒険の書」は戯曲のつもりで書いた。インストラクション(指示)を埋め込んであるという意味で。とはいえ、わたしは文筆家としてというより、設計技師のような心持ちであれを作った。わたしが批評家なのか作家なのか編集者なのか、ということはこの際さして問題ではない。もし今後も続けることができたとしたら、『演劇クエスト』はだんだんわたしの私物ではなく、一種の「ひろば」のようなものになっていくだろう。そしておそらくその「ひろば」には、明るくて元気で溌剌とした人間だけではなく、人に言えない秘密やかなしみを抱えた孤独な人間も居ることができると思う。

 

 

 

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