BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130930 寛容について、ふたたび

 

つまらないなあ、と思うことはあるし、別にほうっておけばいいのだが、自分がそんなつまらないものによって少しでも腐るのがイヤなので、海に行って、しばらく夜風にあたって波の音を聴いていた。遠い世界に行くことを考えている。

 

心が狭く、ある種の害毒を撒き散らさずにはいられない人が、その周辺の空気を悪くする、とゆうこともあるし、そんな言論状況を一新したいと思って活動してきた部分もあるので、では腐ったミカンは捨てればいいのかといえば、それもまた金八先生に怒られてしまうに違いない(下のYoutubeの8分過ぎあたりからを参照)。

 

 

相手もまた人間なのであり、父と母から生まれてきたのであり、血も涙も流すであろう、という事実を、ネットの向こう側にいる匿名の人間に対しても感じることが果たしてできるのだろうか。そもそも怒るにも値しない、という事実がいっそう虚しさを増す。張り合いがない。命を削ってつくったものへの感想が、想定の範囲内であり、なんらの驚きも与えてくれないことにうんざりしてしまう。せめてもっと脅威的な批判であったなら、きっとこんなには萎えない。むしろ奮い立つだろう。だからそのつまらない萎えに対しての保身なのかしら、意地悪な気持ちになってしまう。あの大怪我以降、わたしの中に芽生えている他人を冷笑する感覚(?)が頭をもたげてくる。右目がものすごく攻撃的になるんだ。かつて自分を疎外した社会とその犬どもに対して復讐せよと右目は言っている。これは軽蔑なのだろうか? 去年受けたインタビューの最後のほうで、他人を軽蔑しない、とかなんとか言ってたのはあれは嘘だったのかね。しかし皮肉のひとつも言いたくなる世の中ではある。傷ついたはずの左目がまだ穏やかであることに救われる。こちらはわりとニコニコ笑っている。多少のことではキレない。

 

渡辺一夫の『狂気について』(岩波文庫)の中に「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という短い文章が収められている。学生時代にある友人に教えられて読んだ。やがて立派な思想史家になったその友人は、様々な価値観がありうる自由をまずは認めるところに立とうとしていた。学生時代のわたしは正直、その相対主義めいた彼のポジショニングにイラッとすることもあったと思う。あるひとつの価値観を正義として信じる態度を、その頃のわたしはまだ持っていた。それは強さでもあった。特定の信条によって他者を断罪することは、様々な価値尺度を受け入れながら未知のものと対峙していくよりも、はるかに簡単だからである。

 

今でも許せないことはある。倫理はある。ただその倫理を守るために、他者に暴力をふるってしまったら相手と同じではないのか。「あっちが先にやった」として正当防衛を主張すればそれでいいのか。あるいは衆人環視の下で、相手よりも多くのオーディエンスの支持を獲得し、こっちが多いから正しいでしょみなさん、とドヤ顔でもしていればいいのだろうか。

 

「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」はこうした問題に真摯に切り込んだ文章である。1951年に書かれた文章でもあり、表現や視野の点で弱点はある。弱点? いや、そんなことよりも大事なのは、どうにかして寛容の芽をひろげていこうとする彼の祈りにも似た意志であるだろう。だが彼も繰り返し書いているように、寛容は分が悪い。浮かばれないこともある。それでも寛容であれと彼は言い続ける。あえて「利害」などという不本意な言葉を使ってでも、寛容のほうが最終的には勝つし得もするのだから、僕は楽観的です、などと言うのだ。しかし彼はきっとこの文章を、泣きながら書いただろうと想像する。涙の気配がする。彼は人類のために泣いたのである。

 

以前この日記(「余計なお世話(感想/批評について)」)の最後のほうでも引用したので、それ以外のところを引いて今日は終わりにします。

 

 

……不寛容に報いるに不寛容を以てした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱して、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深い褶(ひだ)を残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は、考えまいとしても考えざるを得ない。従って、僕の結論は、極めて簡単である。寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきではない、と。

 

……ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐をも感じさせる場合も多いということである。あたかも戦争のほうが、平和よりも楽であると同じように。