東アジア文化交流使日誌・香港その6
香港6日目。朝6時に起きて、晶晶さんが見つけてきた丘の上の体操に行ってみることに。まだ暗い中、かなりキツイ坂道を上っていきながら、いったいなぜこんな苦行を……と思いに耽る。文化交流使としては1週間にこれだけ活動してくださいというタスクはいちおうあるのだが、それは充分にクリアしているので、もっと遊んだりダラダラしたり普通に観光してもいいはずなのだ。しかし「普通の観光」にはもう興味がなくなってしまった。いや、初めからそんなものなかったのかも。
この坂、まだ続くのかよ……と何度か思ってようやくたどりついた公園には、まだ数人しか人影が見えない。ベンチに座り込んで息を整える。空がだんだん白くなっていく。するといつの間にか談笑するおばさんたち。おじさんたち。彼らがふいに黙ったかというあたりで体操が始まった、らしい。
晶晶&みのりさんがなんとなくその輪に加わる。わたしも遠巻きに参加していたが、気づいたらインストラクターのお兄さんにロックオンされてマンツーマンで指導を受けていた。「息を吐いて!」
あとで聞いたことだがこれは60歳以上限定の体操だったらしい。すまんかった。外国人だから許されると思って甘えてしまったかもしれない。でもみなさんめちゃめちゃ歓迎してくださった。そしてシニア向けとは思えないハードな体操を1時間以上も続けた。これを週に3回もやっているなんて信じられない。香港の老人を侮るべからず。
午後、中環(セントラル)にある日本総領事館を訪問する。広報文化部の大塚恵さんと事前にメールさせていただいていたのだが、その部長である杉田雅彦さんも一緒に我々に応対してくださった。香港について細かいディテイルを教えていただく。中国・深セン市と繋がりのある線、学生の多いエリア、日本人の多く住むところ等々、具体的なそれぞれの町の特色について伺うことができた。国際交流基金と同じく総領事館も数年で人事異動があるらしく、彼らがいつまで香港にいてくださるかわからないのだが、こうやって理解ある方々がこの都市にいてくれると思うだけでも心づよい。
総領事館を出るとすぐに慰安婦像を発見。上海にある像は見たことがあるのだが、日本総領事館の目前にあるのを見るのは初めてだった。複雑な気持ちになる。不愉快だとは思わなかった。不愉快だと思うには「日本人」から遠く離れすぎてしまったのだろうか。いやそういう単純な話でもないのかもしれない。それが右でも左でも、誰かの側につくということが自分には年々できなくなっていくのを感じている。ベストの「解決策」はおそらく存在しないのだろうと思いながら、ニュースを見つめている。それがもはやテレビの向こうの世界ではないことも頭では理解しながら。
フィリピン人向けの食材店や両替商の入っている商業ビルがあった。フィリピンはミンダナオを除けばキリスト教が主流なので、当然、インドネシアやマレーシア系の女性たちのようにはスカーフを巻いていない。しかし彼女たちにも連帯は必要だ。ここに来れば少しは故郷を思い出すものだろうか? そういえばマニラに住む友人のYENYENは香港ディズニーランドでかつて働いていた。彼女はこの都市で何を思って生きていたのだろうか。
トラムで湾仔に戻って、ブルーハウスを訪ねてみた。ボランティアの女性が(晶晶のマンダリンの通訳を介して)いろいろと教えてくれたのだが、かつてここは病院と住居であったらしい。住居には一部屋に30数人もの人たちが住んでいたとか。ベッドに川の字になって8人くらいで眠ることもあったそうだ。今、そのブルーハウスはコミュニティアートの拠点になっている。いつか一緒にお仕事することもあるかもしれない。
荷物もあるので、九龍半島・太子にある次のホテルまではuberで移動することに。価格が高いほうの海底トンネルを飛ばしていく。そのせいか、提示された金額は120HK$だったのに、165HK$が精算されたというメールが事後に届いた。うーん、だったら最初にそう表示してほしいとuberにクレームのメールをしたところ、わずか数時間で謝罪文が返ってきて、45HK$が返金されることに。
今夜は青春工藝というアートスペースで呑み会のようなイベントがあるらしいけど、パスすることにした。朝から動き回って疲れ切っているし原稿の締切もある。7月にまたゆっくり行けばいい。それが無理ならまたその次に……。人生は有限ではあるけれど、「次」を夢想することはまだもうしばらくはできるはずだ。「今」も大事だけど、「今」しかないと思い詰めるよりは「次」の夢を見ているほうがいい。
というわけで休肝日にして、豚レバーのお粥を食べた。明日も生きていくために、我々はこうして豚を殺して食べているのだった。
東アジア文化交流使日誌・香港その5
香港5日目。晶晶さんは午前中散歩して、ブルーハウスというコミュニティアートの拠点を訪問したらしいけど、わたしは前日までの日誌を書いていた。昼に合流して市場に向かい、蛇を供する店でランチ。売り場から少し離れたアパートに別室があって、そこで食べるという不思議なスタイル。生姜の効いたスープが美味しい。猫と豚が一緒に仲睦まじそうに映っている写真があった。猫はたぶんそのアパートにいる猫だが、豚は果たして生きているだろうか。なんせ市場では豚や鳥の肉が目の前で切られて捌かれていくので。
香港アートセンターのイアン、ジョシー、ニキと湾仔駅で待ち合わせ。メールでのやりとりをしてきたけどやっぱり会うと会わないとでは全然違う。そして最初のミーティングが会議室ではなく、実際に町を案内してもらいながら一緒に歩くスタイルだったのもよかった。とても熱意のある人たち。我々は「文化按摩師」というフェスティバルに参加することになるらしい。
彩虹というエリアを案内してもらう。ジョシーとニキにとって馴染みのある町だからという理由も大きいようだが、なるほどこの、インスタグラマーの撮影スポットとして以外にはあまり有名ではない町に、香港の何かが凝縮されていると考えることもできるのかもしれない。いや、そんな構造的な凝縮だの云々はひとまず考えずにもっとこの町独特のものを掘り下げることに専念したほうがよいのだろうか。いずれにしても、この町に特化して演劇クエストをつくるか、あるいは香港全土を対象にするかはこちらに委ねられている(話し合いの結果そうなった)。すでに他のエリアで面白そうな場所をいくつか見つけてはいるものの、スケジュールの具体的な制約も考慮に入れると、今のところ、彩虹に特化する案が面白そうかなと感じている。公営団地があり、市場があり、不法居住者のスラムがあり、かつてのスパイ養成所(!)まである……
団地の中に酒屋があった。ニキによると、あるアーティストがこの店とコラボレーションしたことがあるらしく、そのアーティストがつくったセラミック製の商品(この店に実際ある商品を模したもの)が店先に置いてある。店主のワンさんも気の良さそうなおじさんだし、たむろする常連さんたちもなんとなく人懐こい。横浜・本牧にある某角打ちを思わせる。というか、まさにここは角打ちだった。香港にもあったとは。しかも団地のど真ん中に。ニキたちと別れた後、もうちょっとここで時間を過ごしてみたいと思い、みのりさんと晶晶となんとなくビールを呑み始めてみる。そのうち常連さんとだんだん打ち解けていき、何杯も奢られ、最終的には一緒に歌ったり踊ったりのパーティになった……。面白いのは、この団地に40年住んでいるというお爺さんは全然酒を呑まないのだが、ただそこに座っていて、我々にビールを振る舞いながら、ぽつりぽつりと話してくれる。彼と、もうひとり歯のないおじさんは英語が少し話せたが、後の人たちは広東語のみで、晶晶のマンダリンもあまり通じない。お爺さんや晶晶に時折部分的に通訳してもらったり筆談したりしながらコミュニケーションをとっていく。
ほろ酔いで、夜の、昼とはすっかり姿を変える団地をひと通り歩いてから、帰途についた。
香港は税がかからないのでビールがとても安い。日本製のビールでさえ日本より安く呑める。とはいえさすがに1日に呑めるビールの量は限界がある。ワンさんの店で紹興酒を買おうとしたら、常連さんに、「紹興酒? 料理用だよ?」と不思議がられた。代わりに勧めてもらった酒は45度で、しかもとても甘い。
東アジア文化交流使日誌・香港その4
香港4日目。またホテルを移動。今回の旅では香港をいろんなアングルから体験してみたくてホテルを転々としている。今回は徒歩で隣町の湾仔まで移動。
昼過ぎから噂のチャーリーに会うため、大道寺梨乃が公演した唐三(Tong3)へ。かなちんやはるかちゃんから絶対チャーリーに会うべしと言われていたのだが、なるほど納得の人格者。唐三ではダンス、音楽、映画といろんなイベントをジャンルレスに行ってるらしい。あくまでチャーリーのスタジオだから稼働率はそんなに高くなさそうだけど、インディペンデントに何かをやりたいアーティストの力になってくれそう。案内してもらった屋上には住居がつくられていたがこの不法なスタイルは香港ではよくあることらしい。とにかく場所が足りないのだ。同じビルに住む96歳のキュートなおばあちゃんにも紹介してもらったが、彼女も、ワンルームをさらにドヤのように仕切った超狭い部屋で隣人たちと暮らしている。肩を寄せ合わなければここでは生きていけない。チャーリーはまた水曜日にいろいろこのエリアを案内してくれるという。
唐三は太子駅のあたりにあるのだが、そこから歩いて数分でステファンの家へたどり着く。彼は結局朝の6時までパーティにいたらしい。もし本気で香港に住むつもりならバスルームをシェアしてる隣人のフランス人がもうすぐいなくなるから部屋があくよ、8万円くらいで住めるよ、と言われてそれなりにマジで考えてしまう。今のところやっぱり住みやすいのは横浜だよなあと思いつつ、香港あたりに拠点があると南シナ海周辺は移動しやすいよなあ……
ステファンとこれまた寝起きの友人ジェシーと一緒にタクシーに乗り込む。こちらのタクシーはどの運転手も運転が荒くてまるでアトラクションみたい。西九龍の野外イベントへ。百万ドルの夜景を見ながら、ビール片手に音楽を楽しむっていう至福……。このイベントは毎月行われているとか。
彼らと再び深水埗あたりまで戻って、半野外の店で食事。ステファンはすでに常連らしく店の人たちと挨拶を交わしている。ジェシーは不動産の仕事をしているらしいがアートにも深く関わってきたようで、フランクに話せるし面白い。香港には海賊がいた、っていうかもともと私たちは海賊だったんだよねと笑うジェシー。
深水埗駅周辺はナイトマーケットというか泥棒市になっていて、盗品ではないかと思うようないかがわしいものばかりが売られていた。新旧や貧富の落差が激しいのは香港にかぎらないことだが、この都市の独特の息づかいはこういうところにあるようにも感じる。
大男ステファンとはレスリーさんと同じくマニラのKARNABALフェスティバルで初めて知り会った。それから京都、台北、東京でも会っていて、ようやく彼のホームグラウンドである香港を訪ねることができた。彼はわたしがマニラ(マリキナ)でつくった『ENGEKI QUEST』を面白がってくれて、香港のキュレーターに紹介してくれた。実はそのおかげで香港でも『ENGEKI QUEST』をやれそうな話が持ち上がっている。おかげさまだよありがとう、と言うと片手を出して「Money!」と冗談で返してくる面白い人物だ(もしかしたら冗談じゃなかったりして……笑)。横浜のTPAM→マニラのKARNABAL→香港、と話が繋がっていくのは面白いしありがたいし、ザ・マーケットとは違うやり方で足場をつくっていくためにはこういう顔の見える草の根のコネクションが自分にはどうしても必要だ。『ENGEKI QUEST』はその土地に良き理解者がいないとつくるのは難しいし。ちなみに実はというとその香港からのオファーはスケジュール的にかなり厳しかったしもうだいぶいろいろ疲れ果てていたせいで最初は断るつもりで返事をしたのだが、こないだ横浜で若い人たちと一緒に新作をつくったことでモチベーションを取り戻せたので、よっしゃここは香港に乗り込んで一丁やってみるかという気になって受けることにしたのだった。それで今回の東アジア文化交流使でもそのリサーチを兼ねて香港を訪れることに決めたのだが、良い選択をしたと今のところ実感している。ステファン、レスリーさん、チャーリーら、頼もしい協力者がいてくれればなんとかここでもやれそうな気がする。香港と呼ばれるこの都市のそこかしこに見え隠れする「落差」の中に、どう我が身を滑り込ませていけるか。そこが創作の鍵になりそう。
東アジア文化交流使日誌・香港その3
香港3日目は買い物の日になった。銅羅湾のあたりは新旧入り混じっていて、基本的には渋谷と銀座が混じったようなきらびやかな雰囲気なのだが、ちょっと路地を入ると衣料品の市が立っていたりする。その市場で甥っ子に贈るオモチャを買ったり、若者向けの洒落たカフェに入ってみたり、焼き物の展示を観たり……。暗くて古い建物がふと気になってふらりと入ってみたところ、意外にもオシャレな古着屋があった。店主のレックスさんは新宿の文化服装学院で学んだらしく日本語もだいぶ話せる。欲しいと思える服ばかりで、900HK$のズボンを購入。同じ建物の食堂からはスーパーマリオの音楽が。そして近くの工場からはトカトンと鉄を叩く音がリズミカルに聞こえてくる。このあたりで一本短編をつくれそうな気がする。
ヴィクトリアパークにはムスリムの女性たちがたむろし、お喋りしたりお祈りしたり、思い思いの時間を過ごしていた。セールスの男が彼女らに何かを売りつけようとしているのを除けば、そこは完全に女性だけの世界だった。まだ直接話しかけたりはしていないが、おそらくレスリーさんから聞いた話にあった、インドネシアから家事手伝いで来ている女性たちではないかと思われる。銅羅湾周辺では彼女らの姿をよく見かける。
移民には独自のネットワークがある。銅羅湾の市場にあるフィリピン食材店では(我が愛しのレッドホースも入手できる!)、フィリピン人のための住居情報の張り紙もあった。横浜でもそうだが、食材店や料理屋は移民のための重要な情報ハブになっている。
てくてく歩いて、図書館と、あちこちにある場外馬券売り場を見学。競馬が町に浸透している。ゴール直前、広東語で叫ぶおじさんたちの声……。
市場の食堂で鶏鍋をつつく。鶏がまるごと一羽入っていて頭や足の形はエグい。隣のテーブルで喧嘩が始まったが、食堂のおばちゃんたちがさっとうまいこと仲介に入る。「No fighting. Communication」とおばちゃん。
Stéphane Noëlに誘われて深夜0時から中環のバーで行われるDJパーティへ。土曜の夜、このエリアはこの種のパーティで大騒ぎだったが、そのほとんどは西洋系の人々で、英語ばかりが聞こえてきた。昼間の街なかでは98パーセントが非西洋系なのに、ここでは逆に98パーセントが西洋系なのだった。パーティは朝の6時まで続くので、3時過ぎまで踊りまくったところでステファンを残して退散。
東アジア文化交流使日誌・香港その2
香港2日目はLeslie Van Eyckさんを訪ねて彼女のスペースWINGへ。彼女とはマニラで知り合った不思議なご縁。香港島の東端、柴湾エリアにWINGという拠点を構えている。バスで向かったら高速道路を使って一瞬だった。アポの時間までカフェにでも入ろうかと思ったが気の利いたカフェなんてなく、お茶ができそうなゆるい雰囲気の食堂へ。するとそこでいきなり麻雀が始まった。しかも全自動卓。見ていると、フィリピンのものよりは日本のルールに近くて、これなら自分にもいずれプレイできるかもしれない。食堂の人々はストレンジャーである我々をわりと歓迎してくれたが、英語が喋れるのはおそらく後からやってきた白髪の西洋系の血が混じった顔立ちをしたおじさんだけだった。
WINGは驚きの高級マンションの最上階にあった。九龍半島の東側を見渡せるロケーションは最高すぎて唖然とする。屋上にはバーベキューできるスペースも広々とある。なんなんだここは。ワークショップやレクチャーが可能なパブリックスペースと、レスリーさんの家族のプライベートスペースとが同居している。うーむ凄すぎる……さっきまでの大衆麻雀食堂から徒歩数分とは思えない別世界に来た感じ。飼い犬のチャーリーも人懐こくてかわいい。山側には墓地が見える。香港には幽霊物語もたくさんあるとレスリーさんは言う。周辺地域を案内してくださった。団地の中に市場があって、人々の生活を支えている。夕暮れが今日という日の終わりを告げている。柴湾は元々はきっと港湾労働の町だったんだろうけど今はベッドタウンになっている。こういう町で暮らす生活を想像してみる。
レスリーさんの教えにしたがって、MTRを2駅先、筲箕灣で降りてトラムに乗り換える。トラムはのんびり進んでいくので高速バスの数倍は時間がかかるけど、ストレンジャーにとっては楽しい景色。そのうち飽きるかもしれないし早く飽きたい(わたしは滞在制作においてこの飽きるという感覚を大事なものだと捉えている)。建築好きのみのりさんのリクエストで、太古駅周辺でいったん降りて「地球の歩き方」のトップページに写真が大きく載っている集合住宅へ。若者たちの撮影スポットになっていた。確かに圧巻の風景。
近くの不動産屋で、このあたりで部屋を借りるとしたら?と晶晶さんに相場を訊いてもらったところ、ワンルームで14000HK$、日本円にすると20万くらいかかるらしい……。
今夜は銅羅湾と湾仔のあいだのホテルに泊まっている。近くの大衆食堂まで歩く。ずいぶんくたびれてほぼ会話のないカップルが何組か。隣の席の人たちは北欧系かロシア系かの顔立ちをしていて、アキ・カウリスマキの映画みたいな雰囲気になっていた。給仕のおじさんはリリー・フランキーをだいぶ枯れさせた感じでこれまた味がある。料理は美味しかった。特に黄立䱽魚。藍妹ビールでいただく。
東アジア文化交流使日誌・香港その1
昨日、香港に到着。空港のマクドナルドでメンバーと待ち合わせて、香港ドル(元)を入手。空港の雰囲気を見るかぎり治安は悪くなさそう。150元のオクトパスカードを購入。メンバーと協議して、バスを使って旺角(モンコック)のホテルまで向かうことに。
バスは海沿いを走っていく。高層マンションが立ち並ぶ。そうそう香港ってこんな感じだったなあ……と思い出しながらも、前回の訪問はなんせ10年以上前だから記憶は曖昧。思っていたより島だった。橋をいくつか渡ってようやく九龍半島に入る。
明日からいろいろスケジュールが入っているので、今日は移動もあったし、無理せずホテルの近く、女人街あたりを散策して終わることに。食堂でブルーガール(藍妹)というビールを注文。ラベルを見ていると、向かいに座っていたおじさんが「このビールは実は韓国のなんだよ。調べてみるといいよ」とたどたどしい英語で教えてくれた。おじさんの英語がたどたどしいのは、もともとあまり喋れないからなのか、それとも酔っ払っているからなのか、判別できない。ともあれ調べてみると確かに藍妹は韓国でつくられていた。もともとはドイツのブレーメンで発祥し、そのあと中国・香港に紹介されて今は韓国で醸造されているという不思議な謂れ……。味はなかなかのもの。
実はわたしが東アジア文化交流使に関係するのはこれが初めてではなくて、2014年12月に演出家の多田淳之介さんが韓国に行く際に帯同者として呼んでいただいたことがある。その時のご縁が繋がって韓国で『演劇クエスト』を上演できたりもした。何がどう繋がるかわからない。そういう経験もあったから、今回の東アジア文化交流使のお話をいただいた時、誰か連れていこう、とすぐに考えた。それで今回は住吉山実里さんと鄭晶晶さんに来ていただいた。みのりさんは建築を学んだダンサーというか最近はアーティストとして活動している人で、晶晶さんは目の見えない人とのワークショップを長年やっていて、もうすぐ横浜美術館で始まる「きくたび」プロジェクトもキュレーションしている。
文化庁から、いざという時の印籠(文化交流使であることの証明書)をいただいたと話したら、みのりさんはさっそく水戸黄門についてググりはじめて、角さんより助さんをやりたいと言い出した。なんでかはよくわからないが印籠を出した時の台詞が助さんのほうが少ないからかもしれない。まあそれはどうでもいい話だが(というか助さんをやるってことの意味がわからないが)、彼女はネットの調査能力が高いし、外国でも物怖じしないしさほど清潔ではない場所も大丈夫で(ひとりでインド旅行もしている)、すでにマニラに2回行ってスラムにも何度か足を運んでいる。アジアでの滞在制作にかなり向いていると思う。晶晶さんは中国語が喋れる(広東語を聞き取ることは難しそうだけど)ので、いざという時の通訳的なポジションとしてお願いした。すでに以前、上海でのプロジェクトにも来てもらっているし、何ヶ月かにいっぺんは会って話もしているので、今回のプロジェクトには最適の人物だと思う。彼女らにはしかし今回の旅はできるだけのんびりマイペースに楽しんでいただきたい。それがおそらく最良の結果に繋がるので。
The Diary of Woman In A Port 7
To be, or not to be, that is the question. I always have to make some kind of decision. Ultimately that responsibility belongs to myself. But has I really decided? Sometimes I have been moved by something external. For example, my dream is sometimes suggestive.
He tried to give me a rice bag. But the bag was empty, because he couldn’t find a place to buy rice. He said.
“Sorry… I really want to give you…!”
I replied, “It’s OK. I really appreciate your kindness and all the efforts. You've already helped me so much. Maraming salamat po. Tapos my flight time will come soon... I have to leave now.”
We hugged, and he kissed me.
After this curious dream, I met him in the real world. I told him my decision, that was my answer for the question : to be or not to be. Finally we hugged again but of course without kissing.
About The Dairy of Woman In A Port(港の女日記について)
The Diary of Woman In A Port 6
初めてのマニラ、カルナバル(2017年版)
The Diary of Woman In A Port 4
The Diary of Woman In A Port 3
The Diary of Woman In A Port 2
I was waiting for the bus at the terminal in 7 hours. 7 hours...? It was also like a ceremony, might be the suffering of Holy Week. Despite this terrible congestion, all Filipinos were not irritated. There were only few attendants and police men, however they formed a gentle order to care for each other. Crowd, trashs, pollution, strong sunshine... They accepted everything. I followed them because they seemed respectable. But on the other hand, I thought "Why am I suffered like this heavy experience? I don't have any families in this country..." Besides, my laptop has broken in this 7 hours celemony. Maybe I was a monk. Finally I felt my spiritual level had gone up a notch.
The Diary of Woman In A Port 1
Last night I spent the unsettling night. Is it due to fatigue? It may be caused by air pollution in a long way jeepney from Antipolo to Cubao.
A woman asked me, “Why are the Japanese skins strong?" I answered, "It depends on each person." And I told her the following facts. There were also serious pollution in Japan like Minamata disease or Yokkaichi asthma…etc. Only the names of those pollutions are listed in the textbooks of elementary schools. But just names...
Why did I talk this to her? Because Japan is a “pioneer" who reflected on its negative history? ...... No way.
In my student age, I mentioned a shallow idea. "Human beings can learn from history, so we become smarter by accumulating histories." At that time, a teacher who were always gentle got very very angry with changing his face to red. Now I can understand the meaning of his anger.
*
Skin.
Maybe there is loneliness under the human skin. When uber's car rocked, she began to lean on my shoulder. If she did it, I may have decided to commit to her loneliness more deeply. But I was afraid that. Perhaps she also felt so.
However, in the Philippines, you know, it's a daily matter that skinstouch each other. Affectionate hug. Close body contact in a crowded jeepney. Sweaty skins are often touching.
Words are also. Filipino exchange their moist feelings through conversations from every morning until every night, or from dusk till dawn. Even if I’m alone in a town, I can feel that easily.
*
Well, In the past few days, I received some invitations for sexual massage. To be honest, some of them upset my heart, but eventually I declined them. I’m not here to extend the black history lying between Japan and the Philippines. I will access this history in some ways. Not to continue but to create new future.
However, it was a fact that I wanted a real massage. No sexual massage. But my favorite massage shop was no available because the slot was full… Perhaps I should have filled this blank with a fake massage.. OK. Now in the Philippines, we are in Holy Week. I can endure my suffering.
Nevertheless, tonight the massage shop is also full. People are always seeking some skin contact. C'est la vie. Mabuhay...!