BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

日記

  

twitterで物議を醸していることの、発端のひとつになったTPAM初日のシンポジウムについて、わたし自身はそれほど損害をこうむったわけではないけれど(おそらく何人かの誤解は招いているだろう)、良くないイメージが先行してしまったな、と憂慮している。こうした互いへの軽蔑は、結局、言論する人間自身の首を絞めていくことになるだろう。それぞれの言い分がそれなりに正しかったとしても、全体的には良くない方向に向かうことがあるのだ、ということを、我々はそろそろ自覚しないといけないだろう(一種のゲーム理論のように)。我々はすでにそれぞれトランプ化している。鏡を見て、ひと呼吸置いて、そんなふうに思ってみる。
 
 
殺伐とした議論(?)の結果として、それぞれが何かにコンシャスになるのならそれでいいとも言えるのだが、わたしは、SNSで批判がお手軽になり、みなが自分の信じたいものだけを信じるようになったポスト・トゥルースとか呼ばれるこの時代にあって、事実が伝言ゲームのようにねじ曲がり、その場にいなかった人たちにその歪曲されたイメージのみが伝わっていくということが、やっぱり、気持ち悪いと思う。だからあの場に6時間居合わせた人間として、そもそも何が起きていたかという事実(にかぎりなく近いもの)をブログに書こうかとも思ったけど、数行書いて、楽しくない、という抵抗感が強くて、やめてしまった。記憶のあるうちにきちんとしておかないと後々に禍根を残すかもしれないけれども。何人かとはいずれ会って話せるだろうけど、何人かはそのまま、ということになってしまうだろう。それもまた人生、と割り切っていいものなのかどうか。
 
 
矢面に立つ人間にはなかなかしんどい時代になってしまった。我々は、歪曲されたイメージが誤配されることに常に気を配っていかなくてはいけないのだろうか。それはあまり幸福なこととはわたしには思えないし、体力的・精神的にも我々を蝕んでいくことになるだろう。「悪い場所」はいよいよ悪い方向にアップデートされてしまった。他者への無用な軽蔑がこれ以上蔓延しないことを願う。
 
 
最近、身体の健康のことをよく考える。少しずつ死に近づいていく友人の日記を読み、わたしは生きなければならない、と思った。生きたい、ではなく、生きなければならない、と感じてしまったのがつらいところだ。この世界には楽しいことがたくさんあるのに、なぜわたしはそれを享受しようとせず、何かの義務感のような形で人生を捉えようとしているのだろうか。愚かなことだと思う。しかし愚かなことだ、と一蹴できないくらいには、様々なしがらみや業のようなものを引き受けてしまっている。立場的に。では、立場、とはなんだろうか? それは本当に捨ててはいけないものなのだろうか? TPAMが終わった次の日に、わたしはネスとラルフと長い時間を過ごした。我々はホッピーを呑み、デュッセルから来たチェルフィッチュを呑み(あ、修正、キレピッチュです!)、城崎から届いたにごり酒を呑んだ。いい時間だった。心からやすらいだ。わたしが今後「家族」と呼ばれるものをつくるかどうかはわからないけど、彼らはまるで家族のようだった。いや親戚くらいの距離感ではあった。まあいい、別に名前なんてつけなくてもいい。早くマニラに行って、彼らに再び会って、あの太陽を感じていたい。
  
 
もうすぐ岸田國士戯曲賞の選考会があり、わたしも同時刻に予想を「演劇最強論-ing」で発表する。今回はノミネート全8作がウェブで公開されたので、徳永さんとの予想対談を読む人の目もそれだけ厳しくなるかもしれない。逆に、ああ、なるほど、上演と戯曲はこう違うのか、とか思ってもらえるのかもしれない。何にしても、矢面に立つということは一定数以上の批判に晒されることになる。3月は公開の場でのトークもいくつか引き受けてしまった。これもまた批判に晒されるということだろうか? 楽しい会にしたい。なぜなら、人と人が顔を合わせて集まり、言葉を交わすということは、素敵なことであり、今や、貴重なことだと思うから。

 

 

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