BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

韓国・安山滞在記5日目

 

11時頃起床し、安山駅までタクシー。多田さんと運転手のやりとりから、駅は「역」というのだと覚える。準備に向かう彼と別れて、駅前でひとりソルロンタンを。二日酔いにはベストチョイスだ。店のおばちゃんに、すごく汗かいてるねー、的なことをたぶん言われる。だいぶ復活。カムサハムニダ

 

コ・ジュヨンさんプロデュース、ユン・ハンソル演出の『安山巡礼道』。光州を経由してきた横堀くんや森さん、マ・ドゥヨンらと再会。丸岡さんは遅れてくるらしい。グリーン・ピグとムーブメント・ダンダンのパフォーマーたちがかなり混ざっているので正確な数は把握できないが、参加者は30〜40人くらいか。ひとりひとりに、黒い傘が手渡される。

 

出発前にみんなでラジオ体操。日本のとかなり似ている……。ラジオ体操が考案されたのは1928年頃だというから、日帝時代に韓国に輸入された(押し付けられた)のかもしれない。聞きそびれたが、ハンソルさんなら、だからこそ確信犯的に使う、ということはありうるだろう。

 

身体もほぐれたところで、巡礼の旅に出発。6時間のルートについて細かくは記さないが、多田淳之介のパフォーマンスは2回目の休憩時。韓国語で自己紹介した後、2011年6月11日のスピーチを日本語で読み上げた(参加者には韓国語訳が配られている)。あの日からわずか3ヶ月後の言葉は、生々しく、切実だった。しかし5年という歳月を経て、遠いものになってしまったことも感じて、悲しかった。ジュヨンさんによると、まるでセウォル号のことを話しているように聞こえたという。

 

最後のほうで、フェスティバルの中心広場を、この巡礼団は黒い傘を差し、卒塔婆のようなものを掲げ、歌をうたいながら突っ切っていった。親子連れや友人同士で楽しくパフォーマンスを楽しんでいる人々にとって、やはりこの黒い巡礼団は異様なものに映ったようで、かなりざわついているのが感じられた。この『安山巡礼道』は、フェスティバルの公式プログラムである。いわば、このフェスティバルを覆っている享楽的な雰囲気を、フェスティバル自身が批判するような試みなのだと、わたしは理解した。「忘れるな」というメッセージを突きつけるという意味で。

 

巡礼の途上、檀園高校の教室を1年半ぶりに訪れた。明日、この教室を撤去して別の場所に移転するかどうかが話し合われるらしく、遺族も何人か訪れていた。母親とおぼしき女性が、机に座り、遺品をひとつひとつ見つめながら、時々ため息をつき、うつ伏せになる。その目はうつろだった。わたしはその悲しみの大きさの前に沈黙するしかない。しかしユン・ハンソルは、その声をあげた、とも言える。

 

以下、今の時点での考えとして、まとまりを欠く状態ではあるけれど、記しておく。

 

わたしは正直、「忘却」をどう捉えていいか、考えあぐねている。結局のところ完全な忘却など不可能なのだが、一時的にであれ忘れることでしか前を向けない人もいるのだろうとは思う。人間は弱いし、キャパシティもかぎられている。あらゆる記憶を受け止めて生きていくのは大変なことだ。だから「忘れるな」と忘却への告発をする時、わたしはいつもためらいを覚えてしまう。しかしこのためらいは、単にわたしが南国生まれでエピキュリアン的資質を持っているために生まれるものかもしれず、そんなのは忘却に加担する不誠実な態度だ、と難詰されたら、そうかもしれないですね……と今は受け止めるほかない。

 

けれど、「語るな」という圧力に対しては、明確にレジストできると思っている。「お前が語ることは迷惑だから語るな」という社会的な空気や政治的な判断に対して、言葉を奪われた人たちにはその存在を現す権利がある。時には芸術がその味方となることもあるだろう。

 

忘れたい人たちのところに、すでに忘却されつつある存在が姿を現すということは、摩擦を生み、その傷に触れてしまうことになるかもしれない。けれどやはり「忘れられたくない」という存在がその姿を現すことは止められない。その存在は時には亡霊となってやってくることになる。

 

『安山巡礼道』は、すでに早くも忘れ去られつつある亡霊たちの、「私を忘れるな」という想いを運ぶ作品である、とわたしは受け止めた。そしてそのことには、わたしは賛同できた。

 

檀園高校の教室には、亡くなった生徒たちの遺影が飾られている(少なくとも今日までは……)。彼らは本当にごくごく「ふつう」の10代の女の子や男の子であり、きっと自分たちに長い未来があることを漠然と信じていただろう。しかし人災によってその命と未来は永遠に奪われてしまった。

 

その人災は、急速に経済発展を遂げていくことを良しとしてきた韓国社会が必然的に生み出してしまったものとも言える(その意味で、セウォル号の事件は、水俣病や、福島の原発事故とも繋がっているとわたしは思う)。したがって『安山巡礼道』は、この現代社会に対する批判的な告発を含んでいる。

 

けれど同時に『安山巡礼道』は、「私を忘れるな」という、亡霊のとてもパーソナルな叫びを召喚するものでもあり、そのことにわたしは惹かれる。もちろんここには、生者が死者を代弁していいのか、という倫理的な問題が含まれている。だから安易に代弁したくないとは思いつつも、とはいえ、死人に口なし、という事実があるのだ。霊的な存在や死の世界との繋がりが希薄になっている現代社会において、芸術が弔いのセレモニーを立ち上げ、死者の魂を召喚することには、大きな意味があるだろう。きっとそのためにユン・ハンソルは、もっとコンパクトにできたかもしれない選択肢を捨てて、わざわざ6時間も歩き倒す、という方法を選んだのだと思う。

 

セレモニーには長い時間が必要である。

 


ちなみに『演劇クエスト』との違いを認識できた、という意味でも参加してよかった。『安山巡礼道』ではたぶん「一緒に歩く」ということが重要なのだと思う。弔いのセレモニーとしては。

 

けれどそれは個々人の自由や積極性と抵触する部分もある。6時間歩ききった丸岡さんが、舞踏の「踊るんじゃない、踊らされるんだ。見るんじゃない、眼球に映すんだ」という言葉を引用しつつ、「歩くんじゃない、歩かされるんだ。もうー、パッシブだね、パッシブ!」と語っていたのは、きっと偶然ではない。その点では『演劇クエスト』とは真逆のアプローチを採っていると思う。

 

とりあえず来年に向けてリサーチしたいのは、

・多国籍エリア
・市民市場
・廃墟の中の教会
・線路跡
埋立地

……かな。

 


待ちに待ったサムギョプサル。この夜の打ち上げのために温存していたのだった。

(下の写真はソルロンタンです)

 

 

https://www.instagram.com/p/BFIaWYQKsvO/