BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

北京7日目

 
朝、ドラムの山田君とお茶を買いに行く約束をしていたので、ホテルを出発。元来お土産選びのセンスが自分にないことに加えて、特にこないだのマニラ以降、お土産を買うような精神状態にどうにもなれない。北京はというと圧倒的に治安が良いのだが、町を歩くこと、外国にいること、旅をすることの感覚が、マニラに行く前とは少し違っているような心地がする。ともあれこの散歩は楽しい。

 

山田君と別れてから、南羅鼓巷周辺の胡同をだいぶ歩きまわり、街道沿いに見つけたいい感じのカフェに入ってジンジャーレモネードのような飲み物を注文。美味しい。「wi-fiはありますか?」と訊いたら「of course!」と明るい返事。異国で疲れている時の「of course」は有り難く染みる。そもそも北京の町なかでは英語はほとんど通じない。日本は日常の中に外来語という形で英語がかなり浸透・侵入しているけれど、中国はそうではない。

 


『ファッツァー』2回目はマチネ。前の方の席で、三浦さんの隣で観る。俳優のパフォーマンスの安定感は初日よりも良かったかもしれないが、観客の集中力はやや散漫にも感じられた。一日の通過点であるマチネよりも、終着点であるソワレのほうが、集中力をもって観るには適しているのかも。

 

アフタートークは劇場のオーナーである王翔さんがゲスト。滞在4日目にみんなで観た作品の作・演出である顾雷さんも来場しており、トークの終盤で発言していた。やはりこの回もトークは1時間を越える長さに。

 


ロビーでなんとなく隣り合わせたナナと話をする。ワークショップの参加者のひとり。彼女はそこまで英語が堪能ではないので(わたしもだけど)、途中からは筆談を交えて話す。なるほど漢字による筆談はけっこう意思疎通に使えるのね。

 

いったんホテルに戻ると激しい夕立ち。雨がやんだ頃に、5日目の夜に行った近くのヌードル店で腹ごしらえと、5元の地ビール。さて、いよいよ千秋楽である。

 

 


『ファッツァー』3回目の千秋楽は忘れがたい上演になった。冒頭の窪田史恵の登場シーンからして「あっ、これは……」というK点越えの予感があった。観客の集中力と俳優のパフォーマンスが拮抗してある種の調和を生み出すという、あの奇跡的な状態が予感されたのだった。そしてそれは的中した。中国の観客は一般的にあまり集中力が高いほうとは言えず、上演中に舞台の写真を撮るのがわりと当たり前で、だから開演前のシンシンによる中国語の前口上も「撮影はご遠慮ください。どうしても盗撮したい人はフラッシュは炊かないでください」と釘を刺しているらしい(むしろ助長しているのでは……)。この回も途中、やはり盗撮し始める人たちがいた。が、そのようないささか注意力散漫な人たちでさえも、終盤は固唾を呑んで舞台を見守っているのが伝わってきた。地点の俳優たちの言葉や、空間現代の音が、びしびし刺さってきた。観客たちは撃たれていた。が、観客たちもまた、おそらくは撃ち返していたのである。ワークショップで三浦基が、演劇は撃つ撃たれるの関係だと言っていたのを思い出す。いや、あるいは、どちらも拳銃を構えながら撃つに撃てないという拮抗した状態が続いていたのかもしれない。これを書いている今、タランティーノの映画『レザボア・ドッグス』を思い出す。そういえばあれも『ファッツァー』と同じく裏切りをモチーフにした話だった……。

 

……今からもう十数年前の話だが、中国・四川省からの留学生が友人にいて、彼女は日本にいる時でさえも、公衆の面前では絶対に中国政府の話はしないと言っていた。その理由は、スパイがいるから、密告されてしまうからだと。

 

……北京に来てからわたしは彼女の話を思い出していた。自分もトークの壇上に何度かあがることがあったし、きわどい話題になるたびに独特の緊張感が走ることを思い知っていたからである。警察も来た。あの日に、天安門広場にも行った。中国人たちの微妙な反応を目の当たりにするたびに、いつどこにスパイがいるかわからないと思うようになった。しかし彼らが見えない敵に過剰に怯えているようにも感じなかった。おそろしく正直なことを言えば、もしかするとあの人がスパイかもしれない、と想像することは、一種の背徳めいた快感をおぼえる行為でもあったのである。例えばその想像の誰かが仮にスパイだったとして、ではわたしが幻滅したり、がっかりしたり、裏切られた、とか思うかというと、案外そうではないかもしれないとも思った。もちろんこんなことはすべて想像の(というよりは妄想の)世界である。だがこの妄想は現実と隣合わせであった。それがわたしの感じた北京だった。

 

日本人の感覚からすると、中国共産党一党独裁体制はおかしい、と感じるのが一般的だろう。実際、検閲はあるし、汚職もある。だがどこかで、この広大な中国という領土をまとめあげるためにはそうした強力な政治体制が必要だという諦念も中国人の(漢民族の)中にはあるのかもしれない。また北京の中心部を見るかぎりでは彼らはある程度の豊かさを謳歌しているようにも見える。もちろん1週間で見られることには限りがある。知識も情報も足りない。ただこの国の人々と付き合っていくためには、いったん手持ちの「善/悪」や「敵/味方」といった概念を括弧に入れる(保留する)必要があるようにも思う。この国の人たちが持っているしたたかさから学ぶことは多い。5日目の日記にも書いたように、直接的な政治的主張は美しいかもしれないが、結局それでは犬死に以上の効果を生み出すことは難しい。おそらく今は、したたかに生き延びていくことが求められている時期ではないだろうか。

 


初日の『ファッツァー』は中国人の目線を通して観た気がする、と書いたが、この最後の『ファッツァー』はアナーキーな(無国籍な)状態に至っていたように思う。俳優たちはもはや何国人だかわからない地平に手を伸ばしていた。これは滅多に感じられることではないし、ほぼ単一民族国家とされている日本では、どんなに素晴らしい上演であってもこの状態にたどり着くことはまず環境的に無理な話であるだろう。そしておそらくはどんな政治批判よりも、こうした表現の地平こそが世界を変えていくに違いない。

 


余談だけれども、国際交流基金・北京日本文化センターの吉川竹二所長と少しお話した。かつてタイに赴任していた時に、仕事が終わらなくて、夜遅くまでやっているゴーゴーバーで2時頃まで仕事していたんだよ……という苦労話をしてくださったのだが、隣にいたシンシンが「所長、ロックだね」とひとことサラッと呟いたのが印象的だった。所長は今日は朝4時起きだったらしく、寝てしまうかも、と心配されていたようだが、この『ファッツァー』の上演はかなり響いたみたいで、いやあセクシーだったね、わけわからなかったけど面白かった!、と声をかけてくださった。や、わたしも何度も観ているのに、未だにわけがわからないんですよ……と答える。

 

「所長、ロックだね」と言ってのけたシンシンはというと絶好調で、開演前に「新京报(The Beijing News」というネット新聞の文化芸術欄の記者にわたしが質問をされた時も、通訳を務めてくれた(質問の内容は、地点の演劇を客観的に観て、『ファッツァー』はその特徴を表していると思うか。また平田オリザから三浦基が受け継いだものがあるかどうか。あなたは批評家として忙しいはずなのになぜ『ファッツァー』を何度も観ているのか。etc.)。何から何までありがとう、と御礼を言うと、彼女は「楽勝!」と日本語で爽やかに言う。シンシン、ロックだね!

 

空間現代も大好評でCDが完売した。

 


終演後は火鍋の店で打ち上げ。去年マンハイムで出会ったダミンが『ファッツァー』を観に来てくれていて(なんと彼女は同じフェスティバルで蓬蒿劇場でインスタレーションをする予定らしい)、ダミンのスクーターに乗せてもらって東直門内鬼街の店まで向かう。正直なところ、てくてく歩いている地点の面々を尻目に、スクーターで走り去るのはズルをしているみたいで痛快。スクーターの後ろから見る北京は、車や道路の距離が近く、また別の顔を持っていた。

 

大いに打ち上がって、今回の一連の企画の主催者である国際交流基金の人たちも一緒になって、明け方までホテルの中庭で話す。本当に基金の人たち(シンシン、後井さん、久保田さん、林さん、梅ちゃん)にはお世話になった。日本人と中国人からなる彼らが、北京の地で日々、日中の国際交流のために働いているということは、日本に帰ってからも忘れないでおきたい。それにしてもこのホテル(侶松園賓館)は24時間、中庭が解放されていて、いつでもビールが買えるのがいい。まあ、眠そうなフロントの女の子を起こすのがちょっとしのびないのだけれども……。それでも彼女は眠い目をこすりながらビールを売ってくれるのだった。空が明るくなった頃、部屋に戻った。

 

 

 

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千秋楽終演後、サイン攻めにあう三浦基

 

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赤い(辛そうな)ネオンが立ち並ぶ東直門内鬼街

 

 

 

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