BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

北京2日目

 
朝、食堂に行くと安部さんがいたのでご一緒させていただいて、地点がエジプト・カイロに行った時の話などを伺う。テレビの報道によると、レストランなどでの喫煙は、今日6月1日から厳しく罰金が課されるらしい。
 
 
CCTVで朝の連ドラらしきラブコメをやっていると思って観始めたら、時々カンフー的なアクションが登場する大仰な時代劇だった。わたしが観たシーンでは、ある女が今の男とイチャイチャしながら買った鉄球で、昔の男にほぼ殺人級の致命傷を与えるのだが、官憲に捕まりそうになったその手負いの男をかばって見逃してあげるという、既視感あるようなないような展開。朝ドラなのに血が流れたりしてけっこうエグい。
 
 
11時から蓬蒿劇場で地点のワークショップ初日。この日はイェリネクの『光のない。』をモチーフにして、「わたし」「あなた」「わたしたち」「あなたたち」の4つのセリフだけでエチュードをつくっていくというもの(これらの呼称を中国語に翻訳して進行)。いつもの三浦基節が炸裂し、通訳のエミイとの息も完璧に合っていた。
 
話のポイントは、地点の演劇が、自然主義リアリズムからどのように離れていったかということ。しかしベケットの『ゴドーを待ちながら』のような「暇」からもいかにして離れるかということ。そして「反復」という手法をどのように考えるか(この点にかんしてはわたしからもひとこと補足した)……などなど。地点がどのように演劇をつくっているのか、その思考のプロセスの一端が見えるような内容だった。三浦さんの発言はほぼすべて文字起こししたので、ここにそのまま貼り付けたいくらいだが、いずれ新しい演劇論としてまとまった形で出版されることを願いたい。
 
参加者は演出家、俳優、批評家、学生など計10数名。おおむね熱心で発言も積極的。というかむしろ個々の意見が長すぎるくらい。多くの参加者は真摯にこの場に向き合っていたが、彼らがどれくらいのリテラシーでもって地点の演劇論を受け止めているのかはまだわからない。
 
最後の質問で最前列にいた学生が「ベケット的なものを使って、先生は何を表現しようとされているんですか?」と訊いた。三浦基は「別にベケットだけに引きずられているわけじゃない……」と渋っていたが、別の参加者が「中国人はそのような形で質問するように教育されてるから、彼は今のように訊いたんです」と助け舟を出すと、三浦さんはしょうがねえなという口ぶりで、「演劇で世界が変わると思ってやってるよ。これは革命だと思ってるよ」と言った。
 
 
 
夕方5時までWSした後は、ほとんど休む間もなく、すぐ近くにある中央戯劇学院に移動して三浦さんのレクチャー。5時間のWSの直後に、2時間半もぶっつづけで喋るという豪胆ぶり……。古代ギリシャからはじまる演劇史をベースにして、現代演劇の空間と時間について考察するという内容。「演劇は危険なものである」という強いメッセージが込められていた。ここに今詳細を書くことはできないが、やはりすべて文字起こしはしている。いずれどこかで、この忘れがたい講義について語る時が来るだろう。
 
 
 
終了後に近くの食堂に入り、青島の大瓶で乾杯。ここも美味しくて安かった。油に漬けた魚を食べるという不思議な料理も。帰り道、国際交流基金シンシン(呉さん)と後井さんと久保田淳一さんに、「そういえば中国の演劇人は、日本の現代演劇の今には興味があるけど、それがどのように成立したかにはあまり興味がない、という話も聞いたんですけどそうなんですか?」となにげなく訊いてみたところ、そこから30分くらい、ホテルの前での立ち話に付き合ってくださった。申し訳なくもありがたい。せめて目の前の個人商店でビールでも買えばよかった……っていうか、やっぱりこの商店は(前日に聞いたように)19:25閉店なんかではなく、深夜0時頃まで営業していた。まあそれはいいとして、日本の演劇の歴史と現在を(できるだけ正確かつ鋭利に)伝える本を、中国語や韓国語でも出版する必要を感じる。本じゃなくてネットでもいいのだが、ネットはいつ遮断されるかわからないので完全には信用できない。
 
 
 
ちなみに昼休みには史恵さんと一緒に小河原さんについていって、南鑼鼓巷のはずれにある小さな路地裏の飲食店街に向かった。胡同(フートン=路地)をうねうね進んだ奥にある、完全に庶民のエリア。この場所をいきなり初日に見つけるとは。小河原さんの嗅覚に感嘆する。
 
 
 
 

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