BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

コラボレーションと失敗について マームとジプシー『ヒダリメノヒダ』から

 

マームとジプシー『ヒダリメノヒダ』は最近のマームの中でも特に思うところ感じるところのある作品で、できれば橋本倫史による力作の上中下三巻組ドキュメント本を読み終えてから言及したかったのだが、さしあたって公演が終わりネタバレを怖れる必要もなくなった今、記憶のあるうちにいくらかの所感を書き残しておくのも悪くないと思い、そうする。

 

 

まずこの作品が伊達サーガ、つまり藤田貴大の出身地・北海道伊達市をモチーフにしたかつての作品群の延長にあり、しかもこれまで以上にそこを掘り下げようとしているのが興味深かった。というか、「町を出ていく/出ていかない」ということにかんしてこれほどまでに暗い執着があるのかと、あらためて驚かされることになった。特に今回は、鮮やかに彼氏を切り替えることに成功し、町に残って酪農家の嫁として生きていくのも悪くないな〜、と考えているわりと世渡り上手そうな「女子」と、いっぽう畸形的振る舞いによって周囲との関係に困難を抱えている「男子」とがいて、両者の存在は明暗のコントラストを描いているようにも見えるのだが、ふたりのあいだに交わされた「おまじない」がそこはかとない友情を結んでいるらしいことに、心動かされるものはあった。

 

その「男子」であるオノシマ君が包丁を持って深夜の町を徘徊するシーンは、青山真治の映画『ユリイカ』を彷彿とさせる。地方都市に住む人間のこの種の鬱屈を、正直、わたし自身はあんまり理解できない。早々に地元を出た身としては「イヤだったら出ていけばいいじゃん」と思ってしまう。しかし様々な事情や精神構造によって移動できない人たちがいて、むしろ大多数がそうなのだ、という事実もまたいちおう頭ではわかっている。オノシマ君はまさにその移動不可能な状態を背負わされた人間であった。

 

彼が納屋で自殺したのは残念だった。というか、それがこの『ヒダリメノヒダ』を急速に予定調和の中に萎ませてしまったように感じた。死んだ瞬間に彼は弔われ悼まれる存在、つまり安全な過去になってしまった。彼が幽霊として最後に現れてももはや手遅れで、生き残った人間の甘美な思い出の中に閉じ込められている。幽霊の中には生きてる者を呪い殺すものもいると聞くが、『ヒダリメノヒダ』におけるオノシマ君はそうではなく、生者に干渉する力を持ってはいなかった。そうして結局『ヒダリメノヒダ』は未来を描くことに失敗したとわたしは強く思う。ここで描かれているのは安全な過去でしかない。慄くほど執拗な過去の怨念、作家・藤田貴大の強い初期衝動であるはずの暗いそれに触れながらも、喪失感とノスタルジーというこれまでと同じ安全な口実が与えられたことで、抜けるかもしれなかった未来への出口は閉ざされてしまった。最後に「女子」はその彼の思い出をパッケージして旅立っていくのだが、彼女がいかに嘆き悲しむ素振りを見せたとしても、もはやそれは彼の死に対しての祈りではなく、彼女自身の喪失感への慰撫でしかなくなってしまう。むしろ地方都市の陰惨な閉塞感はここから始まるはずだ。彼女はそこから逃げる選択をしたわけで、そんな彼女を責めることは誰にもできないが、『ヒダリメノヒダ』は結局その逃避と自己慰撫しか描けていないように思える。

 

 

わたしが観たマチネはドラマーの山本達久がゲストの回で、山本は非常に良いパフォーマンスでこのコラボレーションを成功させていた。そのせいかわたしの観た『ヒダリメノヒダ』は音楽のライブにも似ていて、そのような気持ち良さがあったが、他のゲストの回がどうだったかはわたしにはわからない。

 

しかし「コラボレーション」は諸刃の剣ではないだろうか。藤田貴大とマームとジプシーは「マームと誰かさん」シリーズや、『cocoon』、「まえのひ」ツアーなど数々のコラボレーションを成功させてきたし、得たものは大きかったはずだが、その代償もまた大きい。

 

今回はゲストをどう入れてシーンを編集するかに力が注がれたせいなのか、俳優たちの身体や言葉がだいぶおざなりになった印象が否めない。なんといっても(特に移動してない時の)会話が面白くなかった。セリフはただ物語を次に進めるために置かれていて、俳優たちはそれを自分の順番が来たら喋っているにすぎなかった。それでも吉田聡子がビッチ感を出してくる牛小屋からの一連のシークエンスは面白かったのである。コンビニで倒れた人間をオノシマ君だと思わせながらその直後に彼が外を歩いていたという回想が挿入されたり、結ばれた夜の秘密を周囲に打ち明けるかどうかの話かと思わせながら実は列車を見に行くかどうかの話だったりと、観客を詐術にかける切れ味にも少なからず興奮した。しかし結局それらもオノシマ君の自害によってすべて台無しになったというのは先に述べたとおりである。

 

コラボレーションは諸刃の剣だと書いたが、たとえばその最良のものと思える飴屋法水との関係でさえも、藤田の才能や感性に干渉する、ある意味においては「傷つける」部分があったと思う。念の為に付言するとわたしはこの言葉を悪い意味で使っているのではない。飴屋という巨大な闇を抱えた人間とお互い本気で付き合うのだから当然侵食は起きる。作劇の方法論においても、作家としての意識においても、飴屋の存在が藤田やマームのレベルをかなり引き上げたのはたぶん間違いないと思う。ただそれは元には戻れないことをも意味している。要するにコラボレーションはまったく安全なものではない。もちろんアーティストはそうした傷を引き受けていく生き物だろうし、逆に言えば、他者と接触することで生まれた傷がアーティストをつくりあげていく。すでにして傷だらけの藤田貴大は、同年代の人間たちが容易にはたどりつけないであろうある種のタフさを獲得しているのだろう。

 

しかし今回の『ヒダリメノヒダ』で舞台上に現れた藤田が漂わせていた虚無感は気にかかる。それがもちろん物語上のキャラクターであったとしても。暗室で吉田聡子が語るセリフの中にも、好きになるとか嫌いになるとかは思った以上に早い、とかいうものがあった。様々な無責任な「感想」が一気に可視化されて流れてくるような当世にあっては、虚無感というのは身を守るための最後の鎧になりうる(だが本当に?)。ひとつだけエクスキューズをつけるとするなら、この虚無感は、ポツドール三浦大輔や、一時期のチェルフィッチュ岡田利規が抱いていたように見えたそれとは質が異なっているようにわたしには思える。端的に言えば、彼らは選べなかった。みずからを人身御供として道を開拓していくしかなかったのだ、時代状況的に。けれどそのあとからやってきた藤田貴大は、みずからの意志で今の道を選んでいるように見える。周囲の人間からの要請や期待は様々にあるとしても、やはり今の道、時代の寵児としての注目を集めながらそのど真ん中を突っ切っていくというのは彼(ら)自身が選んだことであり、それは誰にでもできるものではない茨の道であると思う。ただ、そのキツさのようなものがここ最近の藤田の舞台には滲み出ているような気がしてならないし、この道を登りつめたとして、いったいどんな美味い果実が実っているのか、そもそもそんな果実が本当にあるのかさえも、誰にも、期待する側にもされる側にも、わかっていないのではないか。

 

おそらく藤田貴大は、消費されて飽きられるよりも速い速度で階段を登りつめ、現代演劇の「王道」を継承することにきっと成功するだろう。もしかすると「サブカルチャー」を更新し継承していくこともするのかもしれないが、それはわたしにはどうでも構わない。滅びるはずだったものが延命したか、ぐらいにしか思えない。演劇の「王道」についても、それがどんな形のものであっても構わないのである。演劇には様々な遺伝子があり、仮にメインストリームが新たに形成され直したとしてもその多様性が失われることはないだろう。少なくともわたし自身はその多様性を消失させないように批評活動を続けていくだろう。

 

だがすごく率直に言うならば、あんな虚無的な作家の顔を舞台上に見たくなかったのである。それはもちろん不愉快だったとかではなく、なんだか悲しい気持ちにさせられたのである。もっと楽しんだり幸せになったりする道があるのではないだろうか。そしてこの虚無的なトーンこそが、未来への描写を失敗させているのではないか? 『ヒダリメノヒダ』を観ながら浮かんできたのはアントニオ・グラムシの「認識においては悲観主義者たれ、意志においては楽観主義者たれ」というあの言葉で、意志としての楽観主義なしには、やはり未来のことは描けないのではないかとも思う。

 

 

わたしはここまで意図的に「失敗」や「成功」という言葉を多用してきた。『小指の思い出』もある意味では「失敗」だったかもしれない。だが傷を負う代わりに返り血を浴びせるような凄みを放っていた。実は演劇というものはそれがラディカルなものであればあるほど「失敗」に接近していくのではないかという考えが、これを書きながら浮かんでもきた。それはいずれ別の機会に考えたい。

 

失敗できないような場所ほどつまらないものはないが、ここもすでにそうなりつつあるのかもしれない。さて、「ここ」ってどこのこと? ……という今のこの言い回しは、単に舞台上のセリフをちょっと真似してみたかっただけのことである。しかしこれだけは言える。勇気ある失敗をそれとして受け止められなくなったらもうこんな沼みたいな場所に出口も未来もない。