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BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20140823 エスニックナイト、アートでコミュニティと向き合う?

F review

 

Facebookに書き始めたものですが、また時系列を無視してこちらの日記に貼り付けます。

 

 

昨日(土曜日)の演劇センターFは恒例のエスニックナイト。幾つかのイベントが乱立するのは、フェスティバルである以上は避けられないことだし、それだけ多様・多層・多面的に複数の選択肢があるということは、わるいことではないと思います。とはいえ、これまでは立ち上げに精一杯だったけど、そろそろ「であう」8月から、「まざる」9月にシフトチェンジしてく必要があるね、という話を、横浜橋で買い物をしながら、センター長の市原幹也くんと話していました。

 

ちょうど、ゆうべは英語講師でもある黄金町滞在アーティストの山田よしえさんによる黄金町バザールのツアーがあり、アーティストと直接英語で話そう、というコンセプトが面白いなと思って参加しました。結果的に、彼らやサポーター、近所の人、遠方の人などが混ざり(昼間、急な坂スタジオに用事のあった人が下山して寄ってくれたり、通りすがりの人も入ってきたり)、ある部分においてはホストとゲストの境界も融解し、なかなかに不思議な空間になりました。

 

ジャズミュージシャンであり批評家でもある大谷能生さんも偶然(?)通りすがりに寄ってくれました。よしおさんは「俺はほんとはこういうのキライなんだよね」と言いつつ最後まで楽しんでくれたようです。彼のいう「こういうの」が含んでいるニュアンスをここで説明するのは難しいのですが、そのエッセンスをものすごく勝手に(だがおそらくはそんなにズレてないだろう)解釈をすると、芸術(創作も批評も含め)は究極的には孤独な試行なのだ、ということではないかと思います。そういう意味では、最初に山田さんのツアーで、ライアー・ベン、ウダム・グエン、ポール・モンドックの作品を観て、彼らと直接それらについて話をしたのは大きかったように思います。そこには彼らの研究や関心、動機、世界の捉え方、などが現れているからです。

 


こないだ映画批評家大寺眞輔さんからインタビューを受けて気づいたのですが、自分はこの町に呼ばれてきたわけではなく、みずから選んで住み始めました。具体的な存在として大きかったのは、このあたりに住んでいる大谷能生と野毛山の急な坂スタジオだと思いますが(大谷さんちの猫の世話をしている時に泊まらせてもらって、それで決心しました)、ともあれそのおかげでこのエリアに関心を持って、京急沿線で部屋探しをしました。2年前のことです。自分はどうも何か新しいことを始める時には徹底的にリサーチをしたい性格のようで、不動産屋に迷惑をかけながら数十件におよぶ物件を吟味しました。当然その物件探しは、「まちあるき」の様相を呈したわけです。

 

そうする中で自分が得たパースペクティブは、京急で、黄金町よりも南にひろがるエリアへの関心でした。弘明寺に住んでいるある友人が、「黄金町から先はアート不毛の地」と冗談めかして言ってましたが、井土ヶ谷にあるblanClassを貴重かつ重大な例外とすれば、実際そこで「潮目」のように何か色が変わっているのは事実であり、自分はそこに惹かれました。今の町に住んでいるのは、そこがちょうど「潮目」に当たるというのが大きいと思います。

 

その町の、あるいはもっと南の酒場で、日頃アートに接しているわけではない人たちと呑んで話す、ということをひたすら続けてきたこの2年のあいだ、それ相応に鍛えられたと感じています。もしかすると以前は、自分が芸術という、人々の生活から浮いたようなフワフワしたものにうつつを抜かしているということに、幾ばくかの後ろめたさを感じていたのかもしれない。でもそれは完全に消滅しました。今は、芸術が人間の世界にとって必要不可欠なものであるということを、実感として抱くことができます。もちろんロジックとして、「芸術は社会のために役に立ちますよ、使えますよ」ということは言えるのですが、そういう一種の(それなりに大事な)方便としてではなく、実感として感じる、それをこの身体に落とし込む、ということが、今後も芸術に関わっていくであろう自分にとって必要なことだったような気がします。(そういえば、こういう話はここ数年、大谷能生さんとよくしていたのでした。)(それに『演劇クエスト・京急文月編』をつくった最大のモチベーションもおそらくここにあります。)

 

自分の書いた記事が直接読まれるとはかぎりません(小豆島のおっちゃんがほぼ暗記レベルで読んでいてくれたのは稀有な例だと思います)。ゆくゆくはわかりませんが、今のところの自分の力量としては、ある一定の層に向けた言葉になってしまうのはやむをえないと思います。そもそもほとんどの原稿は日本語で書いているわけなので、その時点で、読者層はかぎられるわけです。その意味では排他的なものを含んでしまいます。自分はかつて知的障害者の作業所で働いていたし、今もちょくちょく関わっているので、彼らには読んでもらえないなあ、ということもしばしば考えます。書き言葉というのはやっぱりハードルが高いのです。しかしそれが(いろんな意味で)翻訳されることがある。あるいは、批評行為が作家や作品に何らかの影響を与え(おこがましい話とは思いつつも、それくらいでなければ批評家なんてやってられないわけです)、そこから遠くへと何かが飛ばされることもある。そう考えていくと、批評やジャーナリズムであれ、創作であれ、制作やプロデューサーや技術スタッフであれ、あるいはもしかしたら(作品を観て、支えて、参加する)観客であれ、その作品が展示されたり上演されたりする「場」を提供したりその周辺で生きている人たちであれ……そのあとで呑みにいく酒場や喫茶店であれ……、あらゆる人たちが網の目のように繋がっていて、その中で日々(その人なりに)一生懸命生きている、ということで、この世界は支えられているのではないかという気もしてくるのでした。その一部分として、自分の活動はあります。

 


さて、思いのほか長くなってしまったのですが、実はこの文章を書き始めたのは、明けて今日日曜日にFで行われる「アートでコミュニティと向き合う」というイベントの紹介をしたかったからなのでした……。

 

よく市原くんとも話すのですが、わたしはあまり「コミュニティ」という言葉を信用していません。以前、市原くんと一緒に東南アジアのキュレーターと話をした時に、「community」が例えば移民のことなど一定の社会的な集団を指すのに対して、日本の「コミュニティ」はどうしても地域社会のことを指しがちで、そこに齟齬があるのだな、と感じました。

 


小豆島に行った時も思ったのですが、もちろん、アートが島にやってくることに反対する人たちもいるらしい。反対するっていうか、なんかよくわかんないやつらがやってきて島を闊歩してるけど自分たちの生活には関係ない、という感覚は、やはり起きて当然の反応だとも思います。だからこそアーティストたちは彼らなりの説明責任を果たすべく活動している、というのは、『小豆島にみる日本の未来のつくり方』という本に書かれていますが、わたしがあの本でも書いたし、しばしば他のところでも発言している(せざるをえない)のは、ある地域にとってのストレンジャーの重要性です。

 

別に外から誰もやってこなくてもうちらだけでやっていけるよ、という状態がまだ残っている地域は、ストレンジャーなんか要らねえ、あるいは、うちらのコミュニティに溶け込んだやつだけは認める、という感じになるのはいたしかたないかもしれない。でも今、日本の各地で起こっているのは、もう右肩あがりの時代なんてとっくに終わり、あとはズルズルと後退戦を続けているという状態です。そこにアートが入っていく。町興しの起爆剤になる。……というのは、よくできたストーリーですが、その結果として今、各地で様々な軋轢や、成果が、生まれようとしているのかもしれない。いずれにしても過渡期です。

 

でも、それがないと経済的に立ちゆかないからアートが必要、とかの方便ではなくて、そもそも芸術なしには生きられないでしょ、と言いたいのが本音です。

 


ところで小豆島のジャンボフェリー(神戸=坂手港)は、就航3周年だそうです。……と今、島から持ち帰ってきたウチワには書いてあります。短いですね。というのは、阪神淡路大震災のあと、しばらくストップしていたのが、3年前に復活したのだそうです。この就航は、瀬戸内国際芸術祭とそれなりに密接な関係がやはりあるということになるでしょう。ジャンボフェリーにはでっかいヤノベケンジの作品がどかーんと載っています。こないだの港のお祭りでは、劇団 ままごとの面々がジャンボフェリーの歌をうたいながら、フェリーが去っていって、船長さんが汽笛を3回も鳴らしてそれに応えてくれました。それはとても感動的な光景でした。島のおっちゃんから聞いた話ですが、昔は、島で結婚式を挙げた後、そのままフェリーに乗って新婚旅行に旅立つカップルもいたそうです。フェリーが去っていく姿を見ながら、かつての新婚さんと、それを見送る島の人たちとのシーンを、思い浮かべたりもしました。

 


さて、アートとは、アーティストとは、なんなのでしょうか?

 

アーティストはしばしば、ストレンジャーとしてある地域に現れます。滞在は3日かもしれないし、3ヶ月、いや3年、30年、あるいは一生……? ほとんどの場合、その場所で生まれ育ってそのままずっとそこにいる、ということは、なかなかレアなケースだと思います。出身地に帰るということが稀にあったとしても、やはり彼はその修行期間を外で暮らしていたわけです。

 

よく自分は、堀江敏幸が『おばらぱん」という作品集に書いていた、ムーミン谷とスナフキンのことを喩えに出すのですが、ムーミン谷にとってスナフキンは外の風を持ってきてくれる貴重な存在です。谷の人たちは彼のことを待っています。たぶんスナフキンにとっても、ムーミン谷は帰るところ(のひとつ)なのでしょう。

 

これは寅さんに喩えてもいい話です。柴又の人たちは「寅のやつ、まったく……」といいながら、結局のところ寅さんの帰りを待っているのです。寅さんもまた、フーテンを気取りながら、結局は柴又にふらりと帰ってしまう。続編がつくられるたびに失恋せざるをえない、という宿命を負った寅さんが、それでも幸せそうに見えるのは、結局のところ柴又という土地があり、そこに妹さくらやおいちゃんおばちゃんがいるからだと思います。

 

ところがアーティストは最初からそのような愛着・愛情に恵まれているわけではありません。時にはオーダーを帯びて、見知らぬ土地に潜入していきます。抵抗に合わないほうがむしろ珍しいくらいでしょう。それでも彼がなぜそこに行くのかといえば、それは食うため、生きるため、生き残るためとも言えますが、結局は、この文章の最初のほうで書いたような網の目の中に彼が生きているからなのだとわたしは思います。

 


今度、京都の劇団 地点がやるカルチベート・プログラムの最終講座で、「芸術なしでは生きられない」というタイトルで何か話をすることになっています。この宣言にはふたつの意味があると思います。ひとつは、芸術に何らかの形で携わるある個人が、芸術に魅入られており、それなしでは生きていけない、という強い意志を指しています。もうひとつは、結局のところ芸術なしではこの世界は成り立たない、ということをも含んでいると思います。

 

遡れば、古代の人間が、壁に絵を描いたり、何かを打ち鳴らしたり歌ったり、死者に花や踊りを捧げたり……といったところから芸術は生まれてきたのだと思います。いうまでもないことですが(だが忘れられがちなことですが)資本主義やら近代やらポストモダンやらよりもずっと古いところに芸術の起源はあります。これはもはや遺伝子レベルで人間の生きる姿の中に芸術は流れ込んでいる、と考えるほかないと思います。こないだ、各地の民俗芸能を調査している大澤寅雄さんがFacebookに「ミーム」の話を書いていてなるほどと思ったのですが、ミームというのはつまり人間の活動の記憶の伝達装置ということになるのでしょう。

 

時代と共に形を変えながら、芸術・芸能のミームは受け継がれてきています。そういう先にあるものがアートなのだとしたら、それは果たして人々の生活や「コミュニティ」と敵対するものなのでしょうか? 「敵対」ではなく……これは、寅雄さんのパートナーでもあるダンサーの手塚夏子さんが話していた言葉ですが……「拮抗」ということは確かにあると思います。人間の生活に拮抗するようなものでなければやはりそれは通用しないでしょう。

 

つらつらと書いてしまったのですがたぶんそれはこの話が自分にとってとても大事なことだからです。ともあれ、今日は「アートでコミュニティと向き合う」というテーマで、菊池宏子さんをお迎えしてトークがあります。ここで書いたことと全然関係ない、ということはないと思います。ふらっと来ていただいてもいいのですが、狭い会場ですので、今からでもメールでご一報いただいたほうが確実です。16時から。

http://tcf-project.net/492/

 


終わったあとは、子神社のお祭りに行ってみようと思っています。

 

 

 

http://instagram.com/p/sC-w3oqsqN/

Yokohamabashi Street. We bought foods for the Ethnic Night here. Tonight I met many funny guys who have various backgrounds.