BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131102 鳥公園『カンロ』

 

鳥公園『カンロ』は、簡単に通り過ぎてしまうわけにはいかないと感じる舞台だったので、なんとか都合をつけてもう一度観に行くことにした。2回目、別の席から観て、奇妙な面白さを感じたので、台本も買って帰った。

 

西尾佳織のテクストには、ふつうの現代口語的な会話と、哲学的なモノローグ(や引用)とが混在している。後者は、宛先があるようなないような語り口になり、それが不穏さを導き出すのだが、その状態にシームレスに移行するという感覚は、これまですでに何度か鳥公演に出演している俳優たちのほうからより強く感じられた。逆に、今回が初めての男優陣だけの会話になるとテンションが落ちてしまうというか。裁判官のじいちゃんの話が語られるあたりから、ようやくエンジンがかかるのだけれども。

 

蟻をつぶす話、カップラーメンと石油、様々な奇形が実は種の滅亡を望んでいるのかもしれない……といった終盤の語りはとても興味深いものだった。それまでが、現代日本の人間関係のありようを戯画的に描いているのはわからなくもないけども、ここから先にこそようやく別の世界が見えてくるという感じがあって、わたしとしてはそちらのほうに興味があり、その世界をもっとさまよってみたかった。

 

『カンロ』は最終的に、ここで語られていることがすべて誰かの嘘か妄想にすぎなかった、という話にも読める。それを劇的な構造として(どんでん返し的に)ぱきーんと提示する、ということはおそらく西尾佳織がやりたいことではないのだろう。もっと有機的な、混沌とした、アモルフな塊としてこの舞台を提示し、そこから様々なものが引き出せる状態をつくりたかったのかもしれない。それはある意味では成功しているようにも思うけれども、少し物足りないと感じてしまったのも事実で、私見ながらその理由としては、彼女自身の中にある「混乱」と、彼女が差し出してみたい「混沌」とが、現時点ではごっちゃになっているのではないかと思う。

 

杉山至による舞台美術がかなりの存在感をもって屹立している。かつて、サンプルの『あの人の世界』だったかの時に、ドラマターグの野村政之くんから聴いた話だが、当時、杉山さんはセミ・ラティス(網状に交差するような構造)を意識していたそうで、今回の美術にもそのような何かしらの構造的なコンセプトがあるのかもしれない。

 

演出家としては、そうした経験豊富な美術作家を、作品内に「他者」として迎え入れるのは刺激的なことだと思う。それは俳優やスタッフにかんしてもそうだ。ただ、そうであるならばなおさら、戯曲はもっともっと彼女自身の哲学、詩、妄想、物語の世界へと踏み込んで(迷い込んで)いく必要があるのではないか。他のあらゆることを振り切って、混沌の中に沈潜していくような時間がもっとほしかったと思う。

 

 

 

そのあとは急いで世田谷パブリックシアターに向かい、トバズニハの上映会に参加。メンバー手作りのお菓子などいただきながら、「キャロマグ」3号のためのコメントを頂戴する。