BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131004 代書人の登場(皮肉屋との闘い)

 

韓国行きの旅程がほぼ決まる。要するに、出国と帰国だけが決まっていて、あとは自由気ままにふらついてみようってこと。今月の後半は、ほとんど旅に出ていることになりそう。

 

前々から、twitterからしばらく距離をとりたいと考えつつあったのだが、ついにその時が来たのを感じた。幸いにしてこの先しばらくは、公的に発言できる場がいくつかあるし、プライベートに会える友人たちもいてくれるし、人恋しくなれば酒場にひとりで飲みにいくのもいい。しばらく旅に出るのだから寂しさを感じる暇もなさそうだ。……というわけで、信頼できる人にアカウントを渡して、代書の係を託すことにした。ちなみに代書人という言葉は、隠すほどのことではないので言いますがメルヴィルの『代書人バートルビー』から想起しています。せずにすめばありがたいのですが。

 

 

人間が美しくない言葉を使うことが嫌いです。「美しい」の定義はひとまず置くけど。やっかみとか、嫉妬とか、そういうのはみっともないと思う。人間だから嫉妬心はあるだろう、でもそれを平然と使ってしまうのはオトナの所業ではない。嫌味や皮肉を込めてネットにこそこそ書き込むこと。何か恐ろしいオブセッションに取り憑かれているのだとしか思えない。あるいはみずからの不遇を呪うルサンチマンか。実際いるかどうかは別として、自分の子供に見せて恥ずかしいことはやっぱりしないほうがいいのではないかと思う。精神が腐っていく。他人に対して卑屈になった言葉たち……そんなもので言説空間が溢れかえっていくのは、見ていてかなしい。そして、危機感をおぼえる。このままでは言葉は力を失い、ゴミクズ同然の価値しか持たなくなって、何か大きな権力やブームの手足となるしかなくなってしまう。似たようなものたちのone of themでしかなくなる。しかしいつだって個人こそが大事なのだ。その人がその人であること。その存在証明のために、そして他者やその生きる世界と対峙するために、その人は言葉を使うことを欲するだろう。だがこの先、こんな言説空間の状況で、果たしてそれは可能なのか?

 

このままだと自分もその卑屈な世界の片棒を担いでしまいかねないので、だったら降りようと思う。さようなら。卑屈な世界さようなら! しかし戦略的撤退は、実は後退しているとはかぎらない。対話はするでしょう。ひとまずは別の場所で。ちゃんとまともな話ができるところで。そうして、言葉を鍛え直そう。死んだ人の言葉ももっと読みたい。そして信じるに足る言葉を探す。盲信ではない。あらゆる言葉とのあいだに距離ができるでしょうね。その先にこそ何かがある気がする。仮に何もなかったとしても、その探求には人生を賭けるだけの価値があると思う。

 

 

「夜想」の今野裕一さん(@pkonno)がtwitterに『演劇最強論』の感想として書き込んでくださった言葉はとても嬉しかった。それがあの本を肯定的に受け止めてくれているから、とかではない。現代における批評の必要性と、今何かを出版(publish)することの意味、をこの方は見据えていると感じさせてくれたからだ。そういう人の存在と言葉は勇気をくれます。

 

 

体調はまだ全然ダメだったけど、夕方、フリペ5000部を折るのを手伝いに黄金町に行った。たぶんこれは明日に続くイベントなので、詳しくは明日。