BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130804 余生のはじまり

 

昼すぎ、黄金町エリアマネジメントセンターにて、横浜トリエンナーレサポーター課外活動のフリペ班ミーティング。しばらくご無沙汰してしまったけれども、まあ復帰、ということで。少し進んだかな……。いい感じの名前をつけたい。フリペに。ただ自分はあくまで「講師」なので、実際につくるのはチームの面々なのだと思っています。メンバーは随時募集中。8月11日(日)にはまた全体の集まりがあります。興味ある人は申し込んでみてください。

http://www.yokotorisup.com/event/2013/07/news-485.html

 

 

電車に乗って両国へ。関口文子『余生のはじまり』。TOLTAによく参加されているということや、詩人がたくさん言葉を寄せているフライヤーのイメージから関口さんを勝手に詩人だと思い込んでいてまことに失礼をはたらいた。ともあれ、そうであるなら(演劇に親しんできたのなら)なおさらあんなに噛まないでほしいし、それは単純に稽古が足りていないということをさておいても、発話できるテクストなのかどうか、という吟味が足りていないのでは?、と思ってしまう。舞台において必要なのは「正しく」テクストを再生することではなくて、その発話を通じて観客とのあいだにいかにスリリングな関係を構築することができるかだとわたしは思うけど、大部分の時間において、自己完結したモノローグになっていたように感じた。ある(どこかからやってきた)言葉が、発話され、それが空間を伝わって観客に届く時の(長いにせよ短いにせよ)滞空時間のようなものが欲しいというか……。テクストの内容それ自体については、南極と火星と土星への夢を一緒くたにするな、的なエピソードは面白かったけど、そうしたスケールの広がりを見せながらも結局は自分史(たとえそれが偽史であったとしても)の範疇を出なかったという印象は否めない。というか、最初はあたかも関口文子その人の人生のように語られるので、いきおいドキュメンタリー的な色彩を帯びているのだが、だんだんそこからの逸脱が見られていくわけで、しかしそうなってくるともはやフィクションだから何でも書けてしまうということになる。この「何でも書ける」状態になった時に、(観ているわたしの中に)最初にあったはずの一種の緊迫感(=この人の固有の話を聞き届けようという態度)は失われてしまった。といって、別にドキュメンタリーが見たいというわけでは全然なくて、最初の「関口さん」の物語のセットアップにおいて、例えば何かしらの不穏さであるとかは欲しかったというのが正直なところ。「変態に狙われる、それも尋常じゃない数」とかっていう話とかにはそういう種があったはずなのだけれども。周囲の人間関係に対する不安から道化を演じていくという物語自体は、ちょっと太宰の『人間失格』を思わせるところがあるわけだが、やや内容的に素朴すぎた(素朴なフリをしすぎた?)のではないかとも思う。上演全体に関しては、90分というそれなりに長い時間によって初めて生み出されうるもの(堆積するもの)も特に強くは感じなかったので、ならば40分くらいの中短編で実験をしてもよいのでは? しかし関口さん(「関口さん」?)がこんなに饒舌(?)な人だとは想像していなかった。笑顔が素敵ですね。

 

 

ホルモン青木に寄って身体じゅうが煙だらけになったせいなのか何なのか、海を見たくなり、チャリで赤レンガの辺りをぷらぷらしてみた。横浜、やっぱいいなー。広場がとても広いので、蓮實重彦『反=日本語論』に収められている「海と国境」の冒頭部分を思い出す。

 

 日本は島国で漁業がさかんだとか、バルチック艦隊を破ったほどの提督を持つ海軍国だったとか、海洋性の気候で夏は湿度が妙に高くなるとか、そんな話は昔から聞かされて知ってはいたけれど、まさか、日本に海がないとは思っていなかった。太平洋も見たし日本海も眺めはしたけれど、あれは海なんてものではないと妻はいう。海ってものは、もっと途方もない何ものかでなければいけない。たとえば、英仏海峡に面したノルマンディーからフランドルにかけての海岸、断崖がそそりたっていてもいいし、砂丘がどこまでも伸びていてもかまわないが、そこでの海は、もっともっと大がかりな表情の変化を持っている。潮の干満によって、いままで砂丘だと思っていたところが、いつの間にか灰色の波に蔽われてしまう。かと思うと、潮が二キロにも三キロにも引いていって、気の遠くなるほどの広さの湿った砂が露呈する。そして何頭もの馬の黒い影が、濡れた砂丘を思いのままに駆けぬける。とり残されたように鈍い空の色を映している水溜りのまわりには、鷗たちが群がっていて、そこに、飼主から遠く離れた犬が走りこんでゆく。そして、カフェで風を避けて熱いチョコレートをすすって浜辺に戻って行ってみると、海はもうついそこのところまで拡がりだしていて、最後の砂のお城を崩しさってゆく。海とは、陸と海とが演じるおそろしく気まぐれな、それでいて調子の狂うことのない戯れの場でなければならない。少なくとも、わたくしの知っている海は、視線の尽きはてるあたりまでが陸になったり水になったりする巨大な周期的な反復の舞台なのだ。ところが、と妻はいう。ところが、日本では、海と砂浜とが、あまりにも几帳面にたがいの領土を尊敬しあっている。ゆっくり時間をかけて、だが着実に満ちてくる潮のあの官能的な運動が日本の海には欠落している。嵐の日の途方もない波のうねりとか、台風の高潮とか、そんな海の粗暴な表情がどうしたというのではない。そうじゃあなくて、何といったらいいか、あの動物たちの群がみせる秩序だった奔放さとでもいうべきものが、ごく日常的なさりげなさで海に生気を吹きこんでゆく。そうした生気が日本の海には感じられない。だから、そんな光景としての海に慣れ親しんできたものにとっては、日本には海がないとしかいいようがない。海のない島国に住むことになろうとは、本当に考えてもみなかった。ああ、久しぶりに、海がみたいと妻は時折り嘆息する。ああ、海がみたい。

 

ちなみに前の前の家に住んでいた時に、ご近所だったので、蓮實夫妻が町を散歩しているのはよくお見かけした。

 

この気候なら朝までここで寝てもいいな……とか思いつつ、しばらく海べりを堪能したあと、つい最近極めて残念ながらこの深夜の時間に猥褻事件の発生した横浜公園横浜スタジアム前)を通って、関内駅を抜けると、寝ているホームレスな人々が目につく。中には女性のホームレスもいる。

 

超絶眠かったけども、少し作業を進めておかなくてはと思い、迷いながらもいつものファミレスへ。

 

 

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