BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130623 フリペ班始動

 

飲み過ぎて、ゆうべ、メールでいらんこと言い過ぎたせいか、朝起きて、ひさしぶりに憂鬱な気分になっていた。わかってほしい、という気持ちと、自分の「正しさ」を他人に押しつけるのとは、ほんと紙一重だな……そんなつもりはないのに。ともあれ、劇評の締め切り時刻が迫っていたので、朝7時には起きて、なんとか頭を動かして、最後の仕上げにかかった。

 

 

そのあと少しだけ眠って、黄金町エリアマネジメントセンターへ。横浜トリエンナーレサポーターの課外活動フリペ班のランチミーティング。ごはん食べて雑談してるうちに、なんとなくほぐれていく。実はみなさんまだそんなにこのエリアの細かい地理に詳しくない、とのことなので、じゃあ歩いてみます?、ということに。ややご年配のSTさんにはわたしの自転車をお貸しすることにして、世代も職業もバラバラの謎の行進が始まった。

 

黄金町→横浜橋→寿町→伊勢佐木町→吉田町→都橋→野毛→桜木町ぴおシティへ。学生のEMさんが、アド街の野毛特集で都橋を見て憧れていたようなので、とりあえずその場所へ行けただけでもよかった。

 

歩きながら彼らのコメントを聞くと、町がまた新鮮に感じられるのが面白い。

 

それにしても「町」ってなんだろうか。まず範囲はどこなのか。誰が主体なのか。この問題は下北沢でもさんざん議論されていたし、「路字」というフリーペーパーがとっていた戦略は、結局のところ(振り返ってみれば)その境界を撹乱することにあったのかもしれない。地主、店子、来街者、活動家、あるいはかつてこの町にいた芸術家たち。世代もバラバラ。いろんな人がいた(癖のある人がほんとに多かった……今も彼らの多くはあの町にいる)。愛と所有は紙一重だった。みんな、自分の町、を愛しているのだから、町は、誰にとっても、自分の町、になってしまうようなところがあった。わたし自身もそうだったので、例えば誰かが、「昔通り過ぎた町」のように下北沢を語るのを見ると、ムッと感じたりもしたのだった(でも結局自分がそうなってしまった。ひとは様々な事情によって町を離れざるをえなくなる時がある)。

 

そうした人々それぞれの愛の大きさは、けっして数字では図れないのだと思う。尺度が違いすぎる。ただ、おそらくは行政は最も愛が薄いと思われた。そして杓子定規で強引に計画を進めていこうとしていた。人ではなくてシステムが優先されるからそうなってしまったのだろう(まさに黒澤明の『生きる』のような世界だった)。それでもネゴシエーションは存在した、当然ながら。新しい政治家が誕生した。いろんなアイデアが生まれ、修正され、現実的な妥協点を探っている。あるいは調整がつかなくても、現実は時間と共に必ず進行する。

 

そんな町で生きていくなかで、どれだけの素晴らしいことがあり、いっぽうでどれだけの軋轢が生まれ、どれだけ怒られたことか。様々な議論、主張、思想、思惑が飛び交い、陣取りゲームや恋の鞘当てまで繰り広げられる。いったい何晩、朝まで飲んだことだろう? 愉快な人たち。歌。音楽。ある意味では詩……が乱舞するのだが、朝にはまるで何ごともなかったかのように消えてしまう。だが堆積している。様々なエピソードが。そして誰かが、それを記憶している。あるいは忘れていく。捏造される。噂になる。そして噂も時間と共に変わっていく。誤解と修正。また新たな噂。恐ろしいことに、町にはつねに新しい人たちがやってくるのである。循環している。魅力的な町には若者がやってくる。そのことに文句を言う人もいるし、その循環こそが町を町たらしめているのだと考える人もいる。かたや崇高な思想や議論があり、いっぽうに俗っぽい感情の捻れもあり、それらは複雑に入り混じっていく。ほとんど手に負えないのだ。愛していながら憎しみを語る人もいた。たくさんの恋や友情やその破局や和解も目の当たりにした。それらがなんだったのか、まだ結論づけることはできないし、おそらくは一生、結論付けることはないと思う。

 

そういえばその頃、恋人だった人が、サガンの、賭博に関するテクストにとても惹かれていたけれども、それは彼女なりにこの町を見ていて感じたものがあったせいかもしれない。賭博のように、たくさんの「賭け金」が乱舞している。結局そこには何があるのだろう? ただそれが魅力的であることは確かである。今思えば、彼女はある特殊なポジションからあの町を観察していた。

 

その同じ定点観測所において、たぶんまた、別の目をもって町を観察していたであろう某喫茶店の店主とは、未だに(それなりの距離感を保ちながらも、けっこう濃密な?)関係が続いている。彼とはいつも不思議な会話にならざるえをえない。時々、抽象的になったり、思想哲学の引用が為されたり、俗っぽいエピソードや断言に流れたりする。まあかなり特殊だし、誰かと喧嘩になることもしょっちゅうなので、その店になんとなく行きづらくなっている人もけっこういたりするはず。でも案外、店主は、そういう人が来ても、あ、来たか、といって迎え入れるのではないかとも思う。あいつはダメだ、とか平気でぶつぶつ言うけど、それが本気で人を切り捨てているわけではない、ということを理解するまでにはけっこうな時間がかかった。

 

言語というものはだから表層的に現われるものと、その周囲にまとわりついた言外のニュアンスとを併せ持っていて、酔いどれたちが徘徊する町においては(そしてそれはわたしにとっては魅力的な町だが)、多くの場合様々なアクターたちによってそうしたニュアンスのやりとりが盛んに行われている。あらゆる時にパラレルにこれらのやりとりは進行しているので、当然ながら、それらの全貌を把握するのは無理だが、それが町の魅力を醸し出しているために、観察者はつねにそこからの誘惑を受け続けることになるだろう。

 

将来的には、外国語圏でもそのニュアンスに迫れればいいな、とか思うけど、わたしは現状では英語すらままならないし、日本語でさえそのニュアンスは複雑なのだから、「その土地のネイティブな言語を習得してさえもつかみがたいものがある」と考えていかざるをえないとは思う。便利な言葉はあるし、時にはそれを(対外的に)使わざるをえない時があるとしても(文章を書くことを仕事にする以上、この問題をいかに引き受けるかということはつねに問われる)、基本的には観察者は、そうした言葉にはそぐわないニュアンスに惹かれているのだ。これを考えるにあたっては、例えば宮本常一が探っていた、前近代的なコミュニケーションが参考になるかもしれない、とか思っている。

 

なんだか長くなってしまった。それについてはまた引き続き考えていくとして、とりあえず目の前のことに話を戻そう……。フリペ班は、何人かのいい感じの学生たちと、ベテランの編集者やデザイナー、横浜事情に詳しい人、などなど面白いバランスでスタートしそう。少なくとも、一緒に歩いてみて楽しいと感じられる人たちだったのは確か。ただ、この日来られなかった人たちもいるし、新しい人のためにもなんらかの形でつねに門戸はひらいておきたい。

 

 

メンバーと別れてからエリアマネジメントセンターに戻ると、ひさしぶりに会ったSさんに、建築学の佐藤慎也さんをご紹介いただく。アトレウス家にずっと関わっている方で、今後の話なども少し伺った。「エクス・ポ」のことを知っていてくださった。紙媒体の波及力、やっぱり凄いなとあらためて。

 

ついでにどうでもいい話だけども、気づいたらSさんとはなんとなくタメ口で話せるような感じになっていて、お、この親密感、なかなかいいやんと思った。

 

 

そして稽古のために一気に北上し、移動の電車内で『モラトリアム』劇評の最後の仕上げ。目的地に着いたところで原稿を送信。

 

東京デスロック『シンポジウム』の稽古3回目。新しいことにチャレンジして見事に弱点を露呈した感じ。ドラマトゥルクのヤスからきわめて的確なダメ出し(?)があって、まことにその通りでござると思った。いやー、しかし、多田さんの頭は悩ませてしまうかもしれないけれども、これは正直ワクワクするので、明らかに向いてないと思うけど、もうちょっとだけトライしてみたい。試す時間があるのなら……。ただ、ひとつ思ったのは、某劇団の演劇はとても好きだし刺激的だと思ってるけど、それの猿真似みたいなことは絶対にやめようということ。

 

 

またいつものように愉快に一杯やり(お店の人からスイカをもらった!)、京浜東北線を使ってヤスと横浜に帰る。車中でいろんなアイデアについて話し合う。たぶんほとんどは本番には活かされないだろう、と思うとそれもなんとなく可笑しい。疲れたので、こりゃ原稿書くのは無理だなと思っておとなしく家に帰って眠る。