BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130608 モータプールの長すぎる感想

 

寝不足で貧血状態のまま、浅草へ。ラジコでJ-WAVEを聴いた。神里雄大くんが出ていたから。相変わらずの名調子(迷調子?)で何度も笑ってしまった。とはいえ安定感。5000円で買ったという中国ラップの大したことない感じがまたいかにも神里くんらしい(no money, no friendって意味のタイトルだとか)。

 

 

そしてアサヒ・アートスクエアで子供鉅人『モータプール』。この作品にはまったく面食らってしまった。子供鉅人の特色は、『バーニングスキン』に見られたような抽象性の高い幻想的な世界と、『幕末スープレックス』みたいなパワフルな大衆性、ごく大雑把に二極化するならばその2つであり、誤解を怖れず単純化して言ってしまうなら「ヨーロッパ的なるもの」と「アジア的なるもの」を併せ持つやつらだ、とか思っていた。だけどこの作品はまた全然違うテイストであり、彼らの新たな可能性を感じさせると共に、かなり際どい部分でもあるぞ、と思わざるを得ないものでもあった。

 

正直に言うと、最初の数分は、うっ、今回はちょっと自分には無理かも、と感じてしまったのだった。この作品に対して批判的なスタンスをとる人が現れるであろうことも容易に想像できたし、それがあながちピントはずれだとも思えなかった。ところが個人的には、結果的に子供鉅人のことが、特に益山貴司のことが、さらに好きになってしまったのである。

 

それはなぜか、ということを観終わってからずっと(とりあえず現時点で36時間くらい)考えていた。

 

 

最初に一種の拒絶感を感じてしまった理由として大きかったのは、確かに彼らなりの工夫が伝わってくるとはいえ、「記憶」をテーマにしたこの作品を観て、現代の演劇シーンにおいて極めて重要なあの2つの劇団(ままごと、マームとジプシー)を想起しないわけにはいかなかったからだ。できることなら、この名前はここに挙げたくはなかった。わたしは同一ジャンル内で「×××に似ている」という色眼鏡をつけて観るのはイヤなので、できるだけそうした先入観を排除するように努めてはいるのだが、しかしこの作品は、家族の日常会話の再現、先生と生徒、バレーボール、解体される家……etc.と幾つかのモチーフが被り過ぎていて、さすがに無視できなかった(たぶん偶然の一致なんだろうけど)。

 

そして似たような道をたどる以上、演技の洗練度合いや叙情性などの点において、すでに先行して評価を得ている彼らを上回るのはそう簡単なことではないと考えざるをえなかった。子供鉅人という劇団が彼らに劣るとは思わないけれど、そのノイジーな身体性では、東京の演劇で頂点を極めたあの形式としての完成度には敵わないように思えたのだ。(※ちなみに形式の完成度が高いことが必ずしもいいとは思ってないけど、「段階的に」は必要だとわたしは考えてきたのです。二段階革命論的なこの考えについてはいずれ詳しく別に書く予定です。)

 

そもそも「若者の素朴なノスタルジー」はすでにかなり氾濫しているし、「記憶」を扱うことによって繊細に方法論を熟成させていく時期はもう過ぎたというふうにわたしは感じていた。とりあえず、それが内向的・自己閉鎖的に閉じていくことは避けたい。これから先に必要なのは、繊細な解像度を保ちながらも、どのような豪腕な回路でもって世界をたぐり寄せるか、になっていくのではないか。そう予感しているし、わたしが子供鉅人に勝手ながら(まことに勝手ながら)期待しているのは、圧倒的な敏捷性とパワーとによって世界を闊歩し、既存の価値観の配列をバリバリと食い破り書き換えていくような力なのだ。だから、みずからの「記憶」に執着してしまうのはむしろ退行なんじゃないの、どうしちゃったの?、と感じたのだった。最初は。

 

 

ところが、である。

 

開始してしばらく経って、それまで(失礼ながら)あんまり演技が上手じゃないなあ、とか思っていた、緑の服を着ていた少女役の子(今名前がわかりません、ごめんなさい)が、急に可愛らしく見えてきたのだった。ノイジーでフニャフニャと動くその身体は、端的に言って、ヘンだった。なんなのだろうか、この天真爛漫なのかなんなのかよくわからない存在は……。とにかくそのフニャフニャが面白く感じられてきた。

 

するとその瞬間、この舞台全体が愛おしく見えてきたことに気づいた。これはちょっとしたコペルニクス的転回だった。どうしてそのような転回が起きたのか、その時はすぐにはわからなかったんだけど、後々考えてみると、それはあの瞬間に、彼女が自分とはかなり異質な「他者」として見えた、ということが大きかったのではないかと思う。

 

そう考えると、例えば、バレーボール部の女子たちにもそんなところがある。いささか下世話な雰囲気を放っているあの子たちは、わたし自身の記憶のどこかで出会った女の子とか、あるいは出会いたかったという理想の女の子たちではなく、いずれそうなるであろう「大阪のおばちゃん」の予備軍にしか見えなかった。いや、それはわたしが関西にあまり馴染みがないからそうした偏見を持つのであって、実際には「大阪のおばちゃん」なんて一種のイデア(イメージ)でしかないのかもしれないのだが、まあとにかくわたしには彼女たちは「他者」だった。わかりやすく極端な言い方をすれば「宇宙人」のように遠い存在にも思えた。

 

実は告白すると、わたしはかつては大阪という町があまり好きではなく、あの猥雑さ、声の大きさ、態度のでかさに辟易することが多かった。でもある時不意に、あ、大阪ってアジアの一都市だと思えばいいやん、と感じて、そしたら俄然面白い町に見えてきた。(※もちろん、東京や横浜もまたアジアの一都市だ、という意味においてです。)

 

ここで言いたいのは、単純に彼らが大阪を拠点にしているから東京とはカルチャーが違うね、という意味ではない。大阪/東京、というふうに簡単に分けられるものでもない。ただこの『モータプール』がそのタイトルも含めて大阪的なものをなんらかの形で体現しているようなのは確かであり、単なる大阪のステロタイプ的なイメージを超えて、たぶん子供鉅人が独自に捉えている(あるいは独自に生きてきた)「大阪のある部分」というものが露見するようになっている。その部分はわたしにとっては圧倒的に「他者」であり、一種の「異物」ですらあり、まずそれを受け入れるにはどうやら抵抗が生じるらしい、ということを言いたいのだ。

 

なので、(これは残念ながら会場を使いきれてない部分もあったと思うけど)最初は何言ってるのかもよく聞こえない。いわゆるお笑いなどを通じて関東にも輸入されている種類のステロタイプな関西弁が喋られているのではないし、もっとアイデンティティのあやふやな声だった(そもそも関東の役者も何人か出ている)。いかにも関西、というステロタイプであれば、関東でもたぶん受容しやすい(拒絶もしやすい)。でもそういったわかりやすい既存のコードに乗っかることは、この舞台では際どいところで避けられていたように感じる。そのぶん声はあやふやになってしまうのだが、注意深く(多少の我慢をともなって)聴いていくと、反復されるうちに次第に耳が慣れて聴き取れるようになってくる。だんだんこちらの耳のチューニングが合い、その声や身体もだんだん受け入れられるようになってくる。これはかなり個人差があるのではないかと思うけれども、わたしはだんだんとアリになっていった。

 

そして、そうやって身体が子供鉅人的なるものに馴染んでいくのに比例(あるいは反比例)して、今回の振付を担当している黒田育世的なるものの気配がだんだんと強まってくる、というのが『モータプール』の見所だったのではないか。そして最後のえんえんと続く群舞に雪崩れ込んでいくという……。

 

体調不良による黒田さんの降板は確かにとても残念ではあったけれど、この舞台には、彼女の不在(を通した存在)が色濃く感じられた。ある意味では舞台を侵蝕していくかのようなその気配は、この作品をかなりスリリングなものにしていたと思う。もちろんBATIKの寺西理恵の存在も極めて大きかった。彼女の身体には黒田育世的なスピリッツが流れ込んでいたように感じたが、決して黒田のエピゴーネンになるのではなくて、彼女自身の何かも見せてくれたと思う(「おめでとう!」を連呼するあのシーンとか)。

 

 

で、彼らが「他者」であるということにも関係してもうひとつ重要なポイントは、この作品に登場する人物たちが、あくまでも「特殊性」に踏みとどまっていた、ということである。

 

ふつう、ノスタルジーの構造というのは、「誰かの特殊な過去の物語を披露→そこに喪失感を鍵とした共感できるフックをつくる→普遍性を感じさせて共感」というふうになっていて、このこと自体は必ずしも悪いとは思わないけど、良くないのは、物語の書き手が最大公約数を志向するあまり、得てして「あるある(クリシェ、紋切り型)」のオンパレードというチープなものに成り下がってしまうケース。そういうのはちょっと鼻白んでしまう。

 

では『モータプール』はどうだったのか?、というと、そういった共感の方向には良くも悪くもいかなかったのではないかと思う。(もちろん共感した人もいただろうけど)

 

鍵になるのは、固有名を名乗ったところにある。最初「益山貴司です」とまさに当人である益山貴司が名乗った時、ちょっと、うへってなった。そういう語り口でこんなパブリックな場所で語っても大丈夫なのか? どうして語りたくなったのか? 本当に今それを語る必要があるのか?……とか思ってしまったのである。唐突すぎて、君の話を聴く準備はできてないよっていうふうな。

 

ところがその不安極まりない語りが何度か反復されていく。最初は声だけだったものが、次には身体を持ち、やがてその身体は色濃くなってもんどり打つようになる。とても「みっともない身体」として舞台をのたうち回るのである。

 

そして結果的に、わたしはその「みっともない身体」をとても美しいと思ったのだった。

 

いつか見た飴屋さんの「でんぐり返し」を思い出す。飴屋法水の場合、それは形状としての美しさも保っており、表面的には彼自身の感情は「無」に見える。その「無」が一種の真空状態として物凄く見る者の心を打つのだが、それに対して今回の益山貴司の場合、もっとはるかにダメな感じなのだ。そもそも状況としてかなり厳しい。自分の名前を名乗ってしまっていて、逃げも隠れもできない、その相当恥ずかしい状況をひとりでどうにかしなくてはならないのだから。

 

ここに至って、大阪公演を観た西尾孔志さんがブリコメンドに書いていたことの意味が、わたしなりに掴めたような気がする。

http://d.hatena.ne.jp/bricolaq/#kyojin

 

 

これはまた別の機会にあらためて書くことになるだろうけども、最近わたしは「ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)」という概念が鍵になると思っていて、良い俳優とはヴァルネラビリティを表出できるものであり、それはつまり(演じるという様式を通して)鎧を脱ぎ、ガードをはずし、「嘘のない身体」で舞台に立つことではないか、と考えてはじめている。

 

『モータプール』における益山貴司は、この種のヴァルネラビリティを露見させていたと思う。(そういえば群舞の中で、彼が弟の寛司と一瞬手を繋いだかに見えたのだが、それは実に感動的だった。)

 

客演では竹田靖や、さっき名前を挙げた緑色の服の女性(ほんと名前がわからなくてごめんなさい)も面白かったけども、やはりこの舞台におけるヴァルネラビリティという点においては、子供鉅人の常連俳優たちの身体は見ていて頼もしかった。特に、ひとりで居残り練習をしたり「自分の身体を走って」いたりするキキ花香は、はっきり言ってこれまでの子供鉅人の舞台における怪演的な彼女に比べれば地味に見えてしまうのだが、複数の世界を結びつけるという彼女に与えられたミッションにおいて、ああいう凛とした状態で立つのはかなり大事なことだったのかもしれない。

 

ガッツのある小中太(さわやか先生役)も然り。あの相変わらずの饒舌なひとり語りは素晴らしい……。今回、客席も含めた舞台空間の設計は必ずしもうまくいっていないとわたしは思っているのだが、松葉杖で舞台を斜めに横切って去っていく彼女は鮮烈な印象を残した。彼女はかなりコミカルな演技ができる人なんだけど、それがいわゆるただキャラを被るという感じにならないところがいいのだと今回の舞台を観て思った。彼女は彼女自身としてあの役を引き受けている。そういうのはほんとにかっこいい。

 

さて、そして、こうした俳優のヴァルネラビリティを観客が感受するにあたって、黒田育世の振付はより重要な意味合いを帯びることになる。つまり、彼らはただ「素の自分」を露出しているのではなくて、「振付」された、あるいは「演出」された身体を晒しているのである。これは重要なので繰り返すけども、わたしは「素の自分」を出せばいいと言っているのではない。そうなったらもう俳優ではないと思う。そうではなくて、演じるという行為や様式を通じて「嘘のない身体」に近づけていくというところに魅力を感じるということだ。つまりここには「振付」や「演出」が介在しているし、いってみればそれ(フィクショナルな様式)をどう呑み込んでいくかという俳優の力量も俄然問われることになる。

 

最初にわたしが「特に益山貴司のことが好きになった」と書いたのは、やはりこの作品をいちばん、しかも舞台の上で引き受けているのが彼だし、彼自身の最も傷つきやすい部分を晒さざるを得ないところまで追い込まれていたからだろう。「好きになった」という表現は、批評としてはあまり上等ではない感じはしてしまうのだが、しかしそれがこの舞台を観て抱いた最も率直な感想である。ヴァルネラビリティ云々、という目を通して舞台を観てしまうことの危険はここにある。どうしてもそれが、演者と観客と双方の持っている生理的な感覚に近いところに寄ってしまうだろうから。「好き/嫌い」の話にしてしまったら元も子もない。互いの話が通じなくなってしまう。ここがかなり際どい。

 

黒田の振付はもともとかなり生理的なものに訴えかけてくるところがある。それを彼ら俳優がどう引き受けるのか。あるいは物語(戯曲)がどのように引き受けるのか。そういったところで、観客が受ける印象はかなり際どく変わっていく舞台だったのではないかと思う。

 

そしてそのすべてがうまくいっていたとは思わないので、手放しで『モータプール』を賞賛する気持ちにはなれない。例えば美術がシンプルなのはいいとして、舞台上のモノや光源といった要素が少し物足りなくはないだろうか。あと物語(戯曲)として、複数の世界が進行してレイヤーを形成するのは面白いけど、過去を掘るにしても、あるいは神話的な世界をひろげるにしても、もっと丁寧に言葉や構成を探っていけばさらなる起伏や破壊力が生まれて、もっともっと壮大な景色を見せてくれたのではないだろうか。とか思ってしまう。幼稚なノスタルジーとして見えてしまったら残念である。勝手ながら(まことに勝手ながら)彼らのポテンシャルはこんなものじゃないと思っていて、最初に書いたように、価値観を書き換えてくれるほどのものをやっぱり期待してしまうから。これは過信だろうか?(そうは思わない)

 

ただ、わたしはこの『モータプール』という作品は、「子供鉅人の」というだけに留まるものではなくて、「演劇の」可能性そのものをちょっとひらいたのではないかと思っている。彼らの存在は演劇に、新種誕生的なDNAをもたらしてくれるのではないか。もっと面白い世界を見せてくれるのじゃないか。とりあえず今のわたしには、彼らの身体が持っているものを無視できない、という感覚が強くある。

 

 

 

ひとまずは、そんなようなところで。とにかく『モータプール』を観てだいぶ元気になったので、終演後は浅草を散歩して、スタミナラーメン(レバ肉入り、たまに行く)を食べて、蛇骨湯に入った。

 

それから世田谷パブリックシアターへ。森山直人さんが講師の「舞台芸術のクリティック」を見学。いろんなバックボーンや興味を持った参加者が来ていて、ああ、当たり前だけど、演劇ってみんな最初の入口がどこかにあるのだなあ、と思った。そして森山さんのオープンな感じは凄いなと。

 

控え室で語ってくださった「パブリックな批評」の定義が、非常にシンプルでしっくりくるものだった。つまりそれは「趣味を超えて語る」ということ。

 

 

夜、寝る前に「モンティ・パイソン」を何話かYouTubeで観た。なんとなくこれも子供鉅人の影響だろうなと思った。