BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130426 傲慢とスティグマ

 

朝からリビングでショパンなんぞかけてみる。というかiTunesで偶然そうなって、まるで優雅な暮らしぶりを演出してるみたいになった。まあそんなこんなで机に向かいはじめたわけだけど、体力が続かない。ひとまずはメールボックスの整理から。本格復帰にはほど遠い……。だけど焦ってもどうにもならない。

 

 

自分はおそらくこうなることをどこかで想像していた。それは、障害者の働く知的作業所でかつて職員をしていたし、最近またちょくちょく遊びにいくようになって、障害と共に生きるということがどういうことなのか、その考えの気配のようなものが色濃くなっているせいかもしれない。

 

ずっとずっと昔、わたしは自分が「障害」という明確なスティグマを持っていないことを無念に思ったことがある。それは自分の置かれた環境があまりに辛すぎて、かといってそれを表象する言葉や立場をもたなかったので、何か、明確にその状況をマイナスでもいいからレッテル貼りしてくれるものが欲しい……と浅はかにも考えたのだった。いや、浅はか、と断じていいのかどうか、今のわたしにもまだわからない。それくらいひどい状態にあったのは事実だ。実際そういうレッテルがあれば、今回のように、いろんな人にもっとやさしくしてもらえたのではないか。どうしてそうされなかったのだろうか。それでもきっと、とあるひとがメールで言っていたように、傲慢、な考えではあるのだろう、スティグマを欲するというのは。

 

しかし本当のところどうなのか。

 

今回の怪我で、まるでモンスターみたいな風貌になって、周囲の人々が恐怖するのを、自分はどこかで楽しんでいた。そうでもしないとやってられなかったし。それに、おそらくはこの傷は一時的なものだ、と自分を慰めることが可能だったせいもある。

 

とはいえ考えていたのだ。本当に治るのか? 自分は一生このまま醜い姿で過ごさなければならないのではないか? 第一、左目の視力が無事だという自信がなかった。それを確認できるまでに数日かかったし、抜糸が無事に終わるまでは気の抜けない状態が続いていた。自分が不具(放送禁止用語かしら)になるかもしれない怖れをつねに感じていた。足を引きずりながら坂をくだっていく時が特にそう。その坂はたくさんの女子高生たちが歩いている。若くて可憐で無邪気で将来に可能性をもっている彼女たちと、今の自分とは、あまりにコントラストが激しかった。

 

今日、洗濯物を干しながら、膝の痛みを感じて、ああ、これはお年寄りはつらいんだろうなと思った。老いて、痛みと共に生きる、ということが、果たしてわたしにできるのだろうか。ふとその時に、ベンヤミンのことを考えた。彼はピレネー山脈で服毒自殺をしたと伝えられている。異説もある。本当のところがどうなのかはわからない。ただ、生きて過酷な目に遭うよりも死を選ぶ、ということがありうるとは思った。それを肯定はしないけど今の自分には否定しきれない。できるだけ生きようと思っているけれど。どんなに望み薄でも生きていけるような精神の楽園(?)を保っておきたい。

 

 

明日、ひさしぶりに電車に乗る。電車はタクシーと違って、こちらの時間に合わせてはくれない。