BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

「弱さ」について

ちょっと書き残しておきたい。(例によって一筆書き)

 

わたしは無信仰・無宗教な人間で、新興宗教にはまる人の気が知れないと思っていたが、かなり親密な関係にあった人がそっちにいってしまった、という苦い経験も過去にはあり、ずっと不思議ではあった。それが横浜に来て、静かな時間というものが圧倒的に増え、まあ、ありていに言うならば、自分自身とそれを取り巻くものたちについて考えるというか感じる時間も増え、その結果として、ある種の「弱さ」に直面することになってしまった。

 

東京にいた頃は、それなりに気を紛らす術は幾らでもあったというか、例えば夜中に街を徘徊するといったことも、一種、寂しさを紛らす技ではあったし、もちろん恋愛にもそういう側面は幾らかあったと思う。友達と飲むことについても、きっと。

 

環境の変化は大きい。

 

とにかく「弱さ」である。それはけっして悪いことでもない、と感じる。人は多かれ少なかれ「弱さ」と共に生きているのだろうと今は思う。それを塗り固めて隠そうという気持ちは今はあまりない。なんだかそれが本当に強いとは思えない。真の強さ(というものがもしもあるとするならば)は、きっとこの「弱さ」と共にあるのだと感じる。

 

ただ、この「弱さ」に取り込まれることは怖いので、坊主の友人に相談しようかなとか一時期本気で悩んだりもしたけれど、今はむしろこの状態を愉しみたいと考えている。あまり不安には感じない(たまにやってきてもすぐに遠ざけられる)。それはおそらく、危口統之くんがこないだ言っていた、シモーヌ・ヴェイユの「真空」状態というものに近いのではないかと考えている。「神」というものが仮にいたとする。これは、よくあるお爺さんの格好をしたああいうものではなくて、もっと概念的・形而上学的な一種の集合的思念のひろがりを指すもので、便宜上ここでは誤解を恐れずにもっとも近いイメージである「神」という呼称を使うことにするのだが、問題は、その「神」と「私」との距離なのであって、これが実は計測不可能である。危口くんが語っていたように、嫉妬というのは隣人の持つこの距離を羨むところから生まれるわけだが、まさにそれは「隣の芝生は青い」なのであって、「私」と「神」の距離と、「隣人」と「神」との距離の、どちらが近い、遠い、といったことは計測できないのだと思う。

 

仕事がひと段落してちょっと落ち着いたらシモーヌ・ヴェイユを読んでみようと思うし、この続きはその後で、ということにしてもいいけど、とにかくここで言いたいのは、この「神」と「私」との距離というものが、透徹したものである、ということ。透明な光、あるいは、闇、なのではないかということ。

 

この感覚の中に身を置いてしばらくいろいろと観察したり、考察したりしてみたい。

 

例えばの話、ソーシャルメディアの流れに乗って漂流してくるものに安易に飛びつくのは危険だと感じる。今欲しいのはそうゆうことじゃないんだな。

 

 

うちにはテラスがあって、それが気に入ってこの部屋に引っ越してきたわけだけど、冬は寒いので、あんまり出ていない。けど、まあさっき、夜風をおそれず出てみたら、やはり気持ちよい。空との距離というものが、目に見えるからかね。まあ、「神」と言ってしまうと危ういから、「空」と言えばよいのだろうか。まあどっちでも。

 

 

話が全然変わるようで変わってないんだけど、例えばある人を信頼する、という時、何をもって信頼と呼べて、何をもって裏切りと呼べるだろうか。例えばある夫婦がいたとして、妻が他の男と性的な行為に及んで、それでも夫を愛していることに変わりはなかったとする。あるいは、まったく他の人とのそうした行為はないけれども、夫のことをもはやちっとも愛してないとする。どっちが「裏切り」と呼べるのだろうか。

 

とこんなことを書いてはいるけれど、別にストイックに生きるつもりは全然なくて、まあ肉も喰らうでしょうし、お酒もたくさん飲むでしょう。まあ横浜来てから肉が減ったし日本酒が紹興酒に変わったけど。でもとにかく東京にいる時とはもう何かが決定的に違うなと思っていて、それは上で書いたようなことなのだなと思う。

 

 

今年に入ってから、東京に出ていくのは週に1度くらいの頻度になってきた。このくらいがちょうど良いのかも。とにかく文章を読んで書く時間が確保できるというのは大切なことだと感じる。

 

それにしても東京に行くたびに人身事故に遭遇する。「弱さ」は至るところにあるのだと思う。見えないだけで。それが、自分に向かうものであれ、他人に向かうものであれ、暴力や破壊衝動といった形ではない表出になるようにと願ってやまない。たぶん芸術はその問題と近接しているというか、表裏一体であると感じる。すべてに関わることはできないけれど、いつも気にしてはいる。吉祥寺の殺人事件や、インドの小学生への性犯罪。嘔吐しかねない気持ち。とてつもなく憂鬱になる。何か歪んでいると思う。まぶしい世界はあまり信用できない。

 

四月になったらいろいろ落ち着くはずなので、ちょっとメンテナンスに時間をかけたい。いろいろ捨てて、新しいものを買う。あるいは、修理する。

 

舞台を観る数も減ってしまう。やむをえない。残念ながら多くの御期待に添うことはできない。ただ自分が大切だと感じるものに関してはこれまでよりもじっくり時間をかけたい。