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BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

TPAM期間中の観劇メモ(1)

review

お昼を食べ損ね、雪だが、とはいえ家に食糧はなく、どうせ夜出かけるし、いっそ雪の中を歩いてみようかとも思いつつ、寒さの前にひるんでいる。気が滅入ることもいろいろある。でも、めげてばかりもいられない。阿呆みたいに前向きになってみよう。TPAM期間中のあれこれで、twitterに書けなかったことを少しメモしておきたい。

 

 

▼岡崎藝術座『隣人ジミーの不在』

やはり素晴らしい作品だと思う。わたしが観たのは公開ゲネプロだったので、完成度はまだもうひとつだったかもしれない。それが本番でどうなったのかは気になるけども、ただ、赤レンガ倉庫の空間はハマっているように感じたし、ラストシーンの変更についても、「ここから先のストーリーが初めて衆目にさらされるのだ」という緊張感を客席にいてひしひしと感じた。わわわ、これどうなるの、みたいな。あれは初演を観ていて、かつ公開ゲネプロだけの得難い体験だったかもしれない。初演バージョン(エキストラがわらわら出てくる)のほうが、カタルシスと切れ味は上かもしれない。ただ、あそこからの時間を、エキストラに頼らず俳優たちだけでケリをつけるというところがまず心意気としてもいいし、演劇的な面白さと探究心も感じた。未知の状態を探っていって、結果、最後はかなり宙吊りにされた感じ。しばらくそのぽっかりした虚空のような感じはあったし、今もある。続いている。もう一回観たかったな。赤レンガ倉庫を出て、海と、空が、ひろいなと感じた。

前半は抱腹絶倒。後半は奇妙な世界。初演にもあった、競馬のおじさんが佇んで音楽が流れるシーン、やはりとても感動的。ああいうおっさんは、うちの近所の立ち飲み屋にもいるのだが、あのシーンが入ることで、おっさんに対する「収奪」を防いだと思う。ものいわぬおっさんは多くを物語っている。あと武谷さんの五変化?。やばい。単なるモノマネではなくてやっぱり役=人格をインストールしている感じが凄い。

一部、坂口恭平をモチーフにしている部分があるのは事実だろうけれど、このポリフォニックな舞台が単なるその受け売りではないのは明らかではないだろうか。足されたラストシーンで語られる内容にしても、確かにそれが劇作家=神里雄大のメッセージの重要な一部分である、という強さは感じるし、そこにある勇気や覚悟には心打たれるものがある。けれども、ひとつの答えが用意されているわけではない。つまりこの作品は、とにかく誰かに語りかけようとしているのだと感じる。観客のひとりであるわたしは受け止めて、さて、どうするか。ここがスタートライン、という感じ。未知の世界のひろがりを感じる。それとさっきの、海や、空は、無縁ではない。

 

 

▼ダニエル・コック『Q&A』

強い作品。あなたの望み通りになりたい、とか言いながら、後半、提示される選択肢はわずかに3つ。観客は、自分で望んだことをこの男が体現してくれるのだ、ということを彼の巧みな話術に載せられながら熱狂的に受け入れていく。会場にいた感じだと、大半の観客はまずそこに素朴によろこんでいる、というふうに感じたけれども、わたしは「そんなの別に望んだわけじゃないし、なにこの『望み』の捏造され感? なんでみんな笑えるの?」とか思って気持ち悪くなった。一種の詐欺商法に似ている。はい、はい、はい!と手を挙げさせて、気づいたら高額の壺とかを買ってしまっているというアレである。もちろん、「あなたの望み通りになりたい」などとうやうやしく抜けしゃあしゃあと語ってみせるダニエル・コックは確信犯的にそれをやっているのだと思う。

そのあと偶然、打ち上げの席でダニエル・コックと話すことができて、残念ながら拙い英語でかつそんなに時間もなく、細かいところまでは訊けなかったのだけど、どうやらどこの都市で上演しても選択肢がプッチーニ&ミステリーマンになるというわけではないらしい。でもかなりの確率であれなんじゃないかなあ。

 

 

▼ナデガタ インスタント パーティ『エキストラ・カーテンコール』

5000円の席を買った12人の観客は楽しんだかもしれないけども、果たして大部分の「エキストラ」はどうだったのだろう? 先にリハーサルに参加していた100人ほどが、サクラとして客席に仕込まれていて、盛り上がりを演出していく。最初はそこまで不愉快という感じでもないし、まあ乗ってみるか、と思っているので、なんとなく全員で盛り上がっている感が演出されていく。もしかしたらこの先に、何か大いなる仕掛けが仕込まれているのかもしれない、と期待して待っていた観客もいるかもしれないけども、残念ながら最後まで、一定のトーンのまま進んで終わってしまった感じ。「時間が押してる」というのも演出の一環だったら良かったのかもしれないけども、単にリアルに押して焦ってたっぽかった。「ゴドー待ち」を劇中劇のモチーフとして取り入れながらも、現実のこの作品の時間はまったくああいった無為の時間とはほど遠かったと言わざるを得ない。この作品のモチベーションは一体どこに向かっていたのだろう? パーティのふりをした演劇か、演劇のふりをしたパーティか、という区分けをとりあえず採用するとしたら、この作品は後者だったと思う。しかしながら、みんなで盛り上がろう、イエーイ、みたいな感覚は、少なくともこの日の観客たちはあまり持ってなかったのではないか。なんだかどっと疲れてしまった。

ナデガタ名義の作品とは別に、中崎透名義でblanclassでヤミナベが開催された時に参加したことがあるのだけれど、あれはとてもスリリングな体験=イベント=作品だった。ヤミナベという、まあ、大のオトナはなかなかやらないようなことを、空間を真っ暗闇にしてやることで、不思議なコミュニケーションが生まれていた。文字通り、光がない。だがそれは絶望ではない(もちろん)。ああいう空間やシチュエーションがなければ生まれなかったような会話があそこにはあったと思う。日常とは違った、いわば異交通の空間というか。ある種の親密さが発生したのだった。しかし『エキストラ・カーテンコール』には、交通するものがなかった。ただ空虚な盛り上がりのイミテーションだけがあるように思えた。

 

 

▼篠田千明『ぼやっとする』

2日目の12時の回に観た。これはしかし、30分で1回、みたいな区分けがないほうがよかったように思う。作品をひととおり見終わった観客は、このまま帰るか、もう一度見るか、を選択することができる。つまり、いつまでそのループの中にいてもいのだけれど、観客にはなにかすでにあるパッケージされた「作品」を観に来てしまっている感があって、たぶんもっと、あの空間にいること自体を楽しめるような環境設定があれば、受け取るイメージも異なったのではないか。あとで他の人に聞いたら、回によってパフォーマーが違ったらしい。つまりあそこにはいろんな人が訪れていて、時間を置いていく。あるいは、拾っていく。そうした時間の積み重なり、消えてしまうもの、また見えるもの、そうしたものを篠田千明のアンテナは感じて、あの作品=場=機会をつくろうとしたのではないかと感じた。そのセンス、心意気、アーティストとしてのモチベーションは、なんかいいな、とわたしは思う。ある意味では、『SHIBAHAMA』から通底しているコンセプトでもあると思うし、もう少し育っていったこの作品の姿も見てみたい。というか、その場に居合わせてみたい。含まれてみたい。それはしかし日本では難しいのだろうか?

 

 

 

▼アント・ハンプトン『OK OK』

BankARTの3Fで繰り広げられていたフォレスト・フリンジは収穫が大きかったけども、特にこの作品は痛快だった。男2人、女2人が向かい合って正方形の頂点上にサシ向かいに座る。ルールは、与えられた台本を読んでいくこと。マーカーが引いてあるところを。ただし、先をめくって見てはいけない。わたしは、なかなか出番がなかった。どこまでいってもマーカーは引かれていない。男1、女1、女2が、つらつらと話している。ほら、もうひとりいるはずですよねえ、あの人はいつ登場するんですかね、いっそ無視しましょうよ、的な会話が。いたたまれない。するとある時突然、自分は「×××」として登場させられる。それまで×××××で、ひでえ、誰だこんなことしやがったのは、あとで担当の人に伝えよう、とか思っていたら……いや、いつかこの作品をどこかで体験する人のために、ネタバレは最小限に抑えよう。ラストも痛快すぎる(笑)。やれやれ、あっぱれ、一本とられたわい、という感じ。一緒にこの作品を体験した人たちと不思議な共闘感を得た(実際、男1のKさんとはそれまで面識なかったけども、クロージングパーティとそのあとの打ち上げで同席させていただきました)。この手法はいろいろ応用できそうな気がする。

 

 

▼渡辺美帆子(作品名不明)

奥のラボで行われていた作品。ルールは、封筒の指示に従うこと。最終的に、わたしは自分の人格を封筒に収め、別の封筒から、他人の人格をインストールすることになる。非常に渡辺美帆子らしい作品というか、おもしろい。特にイヤな感じはしないけれど、人格が奪われたような不思議な感覚にはなる。わたしはその代わりにS.Aさんという人の人格を手に入れた。出身地はどこですか? 今の気分は? 今日ここに来るまでに何を見た? なんとなくそれでそのS.A.さんの名前を記憶していた。それが後でとんでもない奇跡を呼ぶことになる。(以下につづく)

 

 

▼ブライアン・ローベル『Carpe Minuta Prima』

100円で自分の1分間を売るというもの。その映像が収められたDVDはクロージングパーティで100円で売られる。自分のを買い戻してもいいし、誰か全然知らない人のものを買ってもいい。自分のDVDが売れ残ってるのを見るのはじゃっかんさみしいものだ。相馬千秋さんのDVDを買おうかどうか迷って、結局怖くて買わなかったけども、今でも興味はある。何枚買ってもいいので、渡辺美帆子がはしゃいで10枚とか20枚とかの大人買いをしていた(彼女はおそらくこういう試みに興味があるのだ)。わたしのは幸いにも(?)、ある男のひとが買ってくれた。知らないひとだったが、共通の知人がいたので、その場で紹介してくれた。そしたら、なんとびっくり……そのひとこそがS.A.さんだったのだ(今でこそ冷静だけどその時はほんとに大興奮した! でもこの興奮、こんなメモじゃ伝わらないかも)。なんだかお互いに人格を交換したような、不思議な気分になった。S.A.さんは新宿の地下街の地図をつくっているという変わったひとだった。

 

 

▼デボラ・ピアソン(作品名不明)

これもラボで行われていた作品で、デボラが指さし会話帳を用いながら、慣れない不自由な日本語で話をするというルール。ビデオ撮影していたので、あとでどんな内容の日本語を喋っていたのか調べるつもりなのかもしれない。「日本語で話をしましょう。できれば、真剣な会話をしたいと思っています」というような内容のメモを最初に見せられたので、こちらも、ではあなたの心意気に応じて、質問にちゃんと答えますという気持ちになった。デボラの質問は、政治、経済、宗教、世界情勢など、様々な範囲に及んで、それについて自分なりに真剣に答えたつもり。日本人同士だとむしろ難しいかもしれない。印象的だったのは「あなたは幸せだと思いますか?」という質問で、それについては、「幸せかどうかはわからないけど、幸福についてはよく考えます」と答えた。デボラがその時、自分自身の幸福について語ってくれた言葉も印象的だったけど、それについてはここには書かない。最後に「もし私たちがお互いに十二分に話せる言語を持っていたら、完璧な会話ができますね! だとしたら何を私に質問したいですか?」というようなメモを見せられる。しばらく悩んだのちに、わたしは、「あなたの感じていること、幸福についてや、価値観や、様々な不安について、もっと知りたい」と答えた。漢字とローマ字とで最初に名前を書いていたのだが、デボラがその漢字を模写してくれた。それは文字というより奇妙な図像のようで、思わず笑ってしまった。果たしてコミュニケーションとはなんなんだろうか? 言語さえ自由であれば、なんでも伝えられる、というのは幻想にすぎないとあらためて思った。この作品、とても好きだった。

 

 

(つづく、かも?)