BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

メモ:幽霊論・序(書きかけ)

 

*メモ:幽霊論・序(書きかけ)

 

この文章は特にどこかの媒体にきちんと発表しようというアテも今のところないのですが、いくつかの他の原稿や思考のための下準備として必要に思われたので、メモ。ほぼ推敲せずに一筆書きで書きます。てにをはすらヘンかもしれない。

 

F/T期間中、いくつかの作品を通して、「戦後日本」における「所有」と「消費」のモードについて考えていた。最初にそのきっかけをもたらしてくれたのはマレビトの会の『アンティゴネ−への旅の記録とその上演』で、あのかぎりなく失語に近いような状態というのは、長崎に生まれ、「ヒロシマ」を考えつづけてきた松田正隆にとって、「フクシマ」を収奪・簒奪しないためのギリギリの手段に思えた。翻ってそれは、人間の、何かを収奪し、みずからのものとして所有することによって得られるような安心感からは、はるかに彼岸にある態度のように思えたのだった。

 

もちろんわたし自身もこの資本主義経済下に生き、その生活を享受しているわけで、だから所有や消費のすべてを否定しようとは思わない。だけれども、例えば恋する人を「彼氏/彼女」として所有することで得られる安心感というものが、人間の再生産(とそれを支える結婚および家族というシステム)の基盤になっており、それを促進させるための「恋愛」というイデオロギーに対して、わたしはいささかうんざりしているのだった。

 

ジョルジュ・バタイユのいう「消尽」という概念は、非生産的に、消費そのものを目的とするもので、貨幣による交換を原理とする資本主義のシステムからは逸脱したものを指しているものと思われる。例えばポトラッチという純粋な贈与があるけれども、このような感覚は、「ギフト」として、例えば岡崎藝術座の『隣人ジミーの不在』にも少し感じられた気がするし、あるいは快快の『りんご』はまさにその極致であるようにも思える。

 

若い世代にも、こうした、見返りを求めない感覚はあると思うけれども、その場合は「届かなさ」に変奏されるのだろうか。例えばロロや、Q(エヴァじゃなくて市原佐都子の)にもその感覚がある。

 

 

所有や消費を可能にするのは、それを引き受ける主体があるからだ。ある人間が、確たる主体を持っていると考えられるからこそ、そこには肉体的な煩悩がある(この点で、肉体が交換可能なものにされているにも関わらず、煩悩まみれであるジエン社は興味深い)。では、果たして観客という存在は、演劇という時間の中で、どのような肉体なり主体なりを保持しているのだろうか? PortBの『光のないⅡ』は、「観客」たちは新橋の街に漂うように繰り出していく。3分毎に間隔をあけて送り出されるし、いちおうのルートは決まっているけれども、その体験にどれだけの時間をかけるかは個々人に自由なこととして委ねられているし、寄り道をしたってかまわない(わたしは途中でステーキを食べた)。

 

ここにイェリネクのテクストが飛び込んでくる。わたしが最も印象的だったのは、神社の脇道の飲み屋街を抜けて、ニュー新橋ビルとパチンコ屋に挟まれた交差点に立って、幸福実現党の車が「脱原発は生活と雇用を破壊します」だったかな、そんなようなことを抑揚のない声でスピーカーからエンドレスに流し続けており、仕事を終えたサラリーマンたちが大量に電力を消費しているパチンコ屋の店内へと次々消えていくのを眺めていた時に、ラジオから飛び込んできたイェリネクの(福島の高校生によって朗読されているという)声は、「情報には感謝する。だがわたしにはわからない」と言っている、そのシーンだった。

 

わたしはその声を聴いて、自分がどこに立っているのかわからない感覚になったのだった。高山明の言葉を借りればこれが「迷子」ということだろうし、先ほどの、わたし自身の中にある肉体を保持することへの嫌悪感のようなものをここに重ね合わせるならば、それは「幽霊」ということになる。

 

ちなみにわたしは事前に情報をあまり入れないタチなので、あの朗読の声の主が福島の女子高生である、という(おそらくは重要である)ファクターは知らなかった。情報には感謝する。だがわたしにはわからない。

 

 

(この文章、いつか続く、かも。地点『光のない。』にも触れないわけにはいかないのだけれど、友人との待ち合わせ時間が前倒しになったので、もう出かけなくちゃ)

 

 

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