BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

自由のための工場

 

*自由のための工場

 

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近頃、作り手(作家、アーティスト)との関係を考えざるをえないことがある。求められればやむなく意見は言うし、求められなくても言いたいことは勝手にしかるべき場所で言うのだが、それが過度に受け止められてしまうような時は一種の恐怖を感じる。お互い生き物である以上、いくらか影響し合ってしまうことはあるとしても、コントロールしたりされたりといったことはわたしは嫌い。健全かつ対等な関係はどのようにありうるんだろうか。

 

作り手の良さを消すことはしてはいけないと思う。たとえ一見つたなく見えたとしても、可能性の芽を摘み取るようなことはしてはいけない、というのが、編集者的な倫理としてあって。とはいえある意見が、一線を越えかねないことはある。そこの判断はつねに迫られている。励ますことと、コントロールすることは違う。離れて待つしかないこともあるし、逆に、距離を詰めてビシビシ容赦遠慮なくやれる時もある。

 

まあ、基本、他人なので、ほっとこう、勝手にしやがれ、ということに尽きるのですが。

 

場合によっては、育ててもらう、という回路を欲している作り手もいるし、実際、育てる、ということをしている人たちもいて、わたしはその人たちに対してかなりのリスペクトを抱いている。しかしではわたし自身がそういう「育てる」役回りの人間なのかというと、それも微妙だと最近は思っていて、わたしはもう少し距離をもって接したほうがよいのではないか。もっと冷たく突き放す必要があるのではないか、と感じることが増えてきている。

 

今までは、あまりそんなことを考える必要はなかった。これまで付き合ってきた作家たちは、ブレない芯を持っていたから、対等にやりあっていればよかった。単にそれだけで刺激的な時間が生まれた(そうした関係を結べた人はごくわずかではあるけれど)。あるいはわたしのほうが全然力がなく、そこから何かを盗むのに必死、という体たらくであった。

 

しかし試行錯誤、それもかなり初期段階のそれをしている作り手たちに対して、気づけば何かご意見番のように振る舞う、ということが出てくると、それはわたし自身にとっては耐え難い、身をかきむしりたくなるようなシチュエーションなのだった。いったい自分は何様なのかと思う。気持ち悪い。いつからそんなおエラい人になったのかと思う。あくまでも対等にやりあいたい。媚びられたりとかしたくない。気持ちのいい関係でいましょう。

 

小劇場にはエラそうに振る舞う人たちも結構いるし(全部がダメとは思いません)、演劇人もそうした尊大さと卑屈さに慣れてしまったり、やむなく受け入れている、という現状が幾らかあるんだろうけれども、そういうべったりした関係性からは距離をとりたい。劇場に入ったら一人の観客だし、そこで何を感じ、どのように変換して形にしていくかは、まったくもってわたしの自由なのだ。というのを最低ラインにしたい。

 

 

とにかく、自分の工場を持つことが必要だ。その工場でわたしは、わたし自身のためにせっせと何かを研究して作り続けていればよくて、その極私的な活動が、どこかで、めぐりめぐって世のため人のためになる(publicな活動になる)、ということもあるのかもしれないけど、まあ基本的には自分自身のためですね。

 

横浜に引っ越したら、自由のための工場をつくりたい。

 

 

付記:上記の件とまったく関係なく、とあるメールをいただいて、対話の重要性を思った。自分と価値観や立場の異なる人たちと対話するチャンネルについては、今後も閉じるつもりはないです。ということをここに付記しておきたいと思います。(2012.7.31)