BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

7/11 横浜という熊の場所について

 

*横浜という熊の場所について

 

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引っ越しするするー、とか騒いでましたけどもようやく新居も無事に決まりまして、横浜のはずれの小さな小さな町に9月頃から住むことにあいなりました。めでたいことです。だいたい25件くらい実際に歩いて見てまわってピンと来たのがここで、初めてその部屋に入った時に「あー、ここに住むのかー!」と思ったら興奮のあまりお腹が痛くなったほどです。電車、自転車、あるいは散歩によって街に出るにも便利だし、そこそこに引きこもれるという静かな環境であり、駅前はいい感じの場末感とキュートさとが同居しています。これはなかなかに理想的な町ではないでしょうか。ま、住んでみないことには分からないこともありますけれども。

 

 

実は横浜に住むのは今回が初めてではなく、10年ほど前に一度、わずか1年ほどの期間、山の谷間のような地域に住んだことがあります。横浜線沿線の、それもまた小さな町でした。わたしは大学を出たばかりで、初めて就く、新しい仕事に期待をしていました。そのための準備は着々と進み、給料こそ安いけれども、希望はあった。ところが、同棲相手の発狂……という、まあこれは話せば非常に長いので割愛しますが、とにかくわたしの人生で最大級の挫折がそこであり、仕事も辞め、命からがら横浜から逃げ出したのです。夜逃げ同然で。残された財産といえばもう自分の命だけ、という有り様。

 

その挫折の傷は相当な深手で、なにしろ人間の狂気が暴力的な記憶として身体に刻印されてしまったので、以後、なんとかそれなりに復活して生きてはきたけれども、やはりあの時に決定的に損なわれてしまったものがあったんだろうなと思います。暴力ってやつはマジで怖いのです。とはいえ結果的に編集者として仕事をするようになったのは、あの時に陥った失語症のような体験が、良いほうに(?)影響したのかもしれない。

 

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さて、なんでこんな話をしたかというと、今回、物件探しで横浜のあちこちを歩いていた時に、なんかその当時の記憶がまざまざと蘇ってきたのですね。といっても、暴力的なエピソードを思い出したとかっていうより、何かあの時に抱いていた肌感覚のようなものがざわざわと皮膚をつたって呼びかけてくるというか。なんだ、これは、っていう。

 

そう、たぶん10年前に尻尾を巻いて逃げ出した時、わたしはこの皮膚感覚を怖れていたのだと思います。この感覚を通じて、人間の顔や声が迫ってくるのが怖かった。目を見るのも怖かったし、肌に触れられるのはもっとイヤだった。狂気に呑み込まれるのが恐怖だった。

 

しかしどうしたことか、今はこの感覚を、愉快に感じているな、ということに、今回横浜を歩き回っていて気づきました。たぶん横浜のある地域は、わたしにとっての「熊の場所」(@舞城王太郎)なのでしょう。つまり恐怖の記憶が刻印されていて、すぐに戻り、立ち向かわなければならない場所。だけどわたしはすぐに戻ることはできなかった。それなりに強くなる必要があったし、それは、心を覆い隠して塗り込めるような強さではダメだった。もっともっと、傷つきやすさを受け入れていき、それでいてナイーヴさから脱却する必要があった。おそらくは、自分自身の心構えとかそれ以上に、いろんな土地を訪ねて、いろんな人に会って、といったことの積み重ねが必要だったようにも思います。ひとりで考えても埒があかないものだった。他人の痕跡をこの身体にインストールしていく必要があった。

 

とにかく、今、横浜を歩いていて、ざわざわと皮膚をつたってくるこの感覚を愉快に思えているというのは、そう悪いことではないでしょう。そして今わたしは、10年前に迂回せざるをえなかった道の、尻尾を巻いて見ないようにしたその先の、そこ、にあるものに触れたくなっている。人間の狂気、といえば聞こえはいいが、それもまた一種の仮面にすぎない、かりそめの名付けであって、そんなようなものの、さらに下に隠されているものを、やはりもっともっと、掘っていかなくてはいけないと思う。もちろんそんなの誰かにやれとか言われたわけじゃないけど、それがつまりわたしにとっての芸術に触れるモチベーションになっていて、もしも今の仕事を続けるのだとしたら、そこをもう抜きにはできない感じ。

 

……とか、書くと、まるで恐怖の世界みたいだけど、そういうことではなくて、人間というものをいかに見て、いかに知り、そしてどのように手を取り合うことができるのか、という当たり前の人間の営みと、おそらくはほぼ等しい行為なのだと思う。たぶんこのレベルにおいてこそ生活と芸術とが通じ合うはずだ、という直感だけが今ある。

 

まあとにかく人生は楽しむ。

 

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