BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

4/29 最近つらつら思うこと

 

*ただの悩みじゃん

妙な時間に目が覚めてしまった。もやもやとした思念のあるせいか。来月末に行く北海道、せっかくなのでいろんな町に行きたいとも思いつつ、車がないと話にならなそうだし、移動にはやはり体力も使うので、今回は札幌近辺を散歩する程度に留めようかなと思う。今日も横浜に行って帰ってくるだけでそれなりに体力を使った。また旅に出るタイミングが今年もまだまだありそうだし。韓国ソウルにも行ってみたいのよね。

 

しかし今日の横浜はさておくとして、どうも観劇のモチベーションがここのところ落ちていて、それというのも、やはり何かの焼き直しや変奏的なものは特にもうそんなに観たくないよと思うのだった。かといってオリジナルと思い込んで適当にやっているものは観るに耐えない。やはりそれなりの意識や覚悟や角度やトライアル精神をもって臨んでいるものにしか今興味がない。芸術は確かに感性に大きく拠るものであるのは間違いないが、だからといって感性がそのへんに無尽蔵に転がっているとは到底思えないのだった。

 

とはいえ、先日の岸田戯曲賞授賞式でいろんな人と話せたおかげで、少し、見失いかけていたモチベーションが復活してきた感もある。わたしの活動パターンは身近なところに前例があるわけではないので、手探りでやっていくしかない。世の中で大々的に評価されるような仕事ではないし、それどころか世間的にはさっぱり意味が分からないと思うのだが、見る人は見てくれているのだなー、と思った。意外な人が意外な評価を下してもくれた。それがどれだけ心強いことか……と思うけど、そういった人たちでさえ、わたしの多くを理解してくれているわけではない。これだけ可視化されているはずの世の中ではあるけれど、逆に、見えているものはごく一部でしかないのだとも思う。

 

まあ諦めるしかない、という話なのだが、要するに単純に原始的な欲求として、すべてとは言わないまでもある程度大事な部分を理解されたい、とかとか未だに思っているのかもしれない。この歳になって。恥ずかしいことだ。知り合いが増えれば増えるほど無理解の領域もまた増大していくし、アーティストと編集者という関係を続ければ続けるほど消耗していく。もはやこれは職業病のようなものだから、この仕事を続ける以上、もういい加減に諦めてしまえばいいと思うのに。しかしせめてもう少し理解してくれてもよかろうとか思っちゃう。だから絶望してしまう。

 

とにかく他人のために、ということは金輪際やめたい。こういう仕事をしていると陳情めいたものが持ち込まれてくることが多くて、それはそれで興味深いのだが(あまりに辛い時はゴッドファーザーの冒頭シーンを思い出して自分を慰めるわ……)、何を引き受け、何を断るか。基本的には、面白そうなものに飛びつきたいと思うのだが、実際にはそう簡単にもいかなくて(何が面白いかやってみないと分からないこともあるし)、人間世界のことだから、妙なしがらみや感情の糸のようなものに絡まれることもまたしばしば起こるのだった。もっとシンプルになりたい。残念ながら、性格の悪い人間になるしかないのかも。

 

とりあえず他人を基準に置いていくと消耗するのだ。理解されることを諦めるのだとしたら逆に捕まえられないくらいの速度が必要だと思う。どんどん自分を更新していきたい。どこかに安住する、ということは今は考えたくないし無理だ。ある達成を得たら次へ行きたい。認識の枠組みをひろげていく。まだ全然足りてないのだ。その足りなさが、どうもここ最近の苛立ちの最大の原因であるようにも感じる。もう全然足りない。足りないんだよね。東京を出ていきたいと思うのもそこかもしれなくて、今住んでいる町には全然不満がなく満足しているのだが、ここにいると次に行けないような気がしてしまう。

 

まあしかしそもそも引越しをすることになったのもわたしが望んだことではなくて外的な要因によるもので、こうしていつも、押し出されるようにして次の場所へと移動させられるのだった。それが自分の意志なのか、外部からの要請なのかは、12歳にひとりで東京に来た時から分からない。もちろん今はあの時とは違ってもうすっかりオトナだし、自分で考えて自分で選択することができる、はず、なのだが、しかしいつも何かに押し出されているような感覚もある。それがなかったら、ものぐさなわたしは動かないとも思うし。ある選択をしたとして、本当にそれはわたし自身の意志なんだろうか?

 

とにかくぬるま湯にはいたくない。

 

 

*世界を再編集する 

それはさておき、具体的現実的に考えてみるならば、きっと今差し当たって求めているのは、散発する仕事群を束ねるような何か、なのだと思う。以前、原田淳子さん(路字と人)とコトバ地図会というのをやったけど、ああいった形で問題意識ごとの声明文をまとめていくようなイメージで考えてみるのはどうか。そして幾つかの「プロジェクト」として落とし込んでいくのもアリかもしれないと今これを書きながら思った……のでやってみよう。とりあえずざっと今この瞬間に思い付くところを挙げてみる。(これは適当だからきっと後で修正する)

 

▽芸術環境創造プロジェクト

▽批評再考/再興プロジェクト

▽新メディア創造プロジェクト

▽地域探検・発見プロジェクト

▽歴史再認識プロジェクト

▽人材発掘・育成プロジェクト

▼芸術探究プロジェクト

▼謎・デタラメ・暗闇召喚プロジェクト

 

こう書き出してみるとなんとも軽い……。吐き気がするほど軽いわ。けれどもこの軽さに耐えてみるというのも思考実験としては面白いと思って続けてみる。これらのプロジェクトは相互に影響し合っているわけだが、要するにひと言で束ねるとしたら、世界を再構成する、ということに帰結するのだと思う。アサダワタルくんの「日常を再編集する」に倣って言えば、世界を再編集する、ということ。そしてそれによってわたし自身や周囲の人の認識を転換すること。

 

ただしラストの2つはちょっと毛色が違う。それまでの6つは社会的意義のようなものをすぐさま見つけられそうだし、社会性や公共性という名の下にすぐにでもまっとうな装いをすることができそうだが、ラストの2つに関しては時にはそういった公明正大なものに一見して抵触したり反逆しているように見えることだってあるかもしれない。これら2つはきわめて極私的なわたし自身の愉しみ(欲望)でもあるが、それなしの世界はまったくつまらないとも思う。だから実はこれも(これこそが)社会的であり公共的なものへの回路だとわたし自身は思っている。そこから別の次元を考えたい。

 

何もかもが明るい世界にはうんざりする。黄金町に住みたいと思っている理由にもそれがある。あの町が隠そうとしても隠しきれない淫靡さというものを今欲してしまっている。

 

これから先も歴史はどんどん上塗りされ世界は明るく「浄化」されていくだろう。しかしわたしとしてはたぶんそこにささやかな抵抗を試みてしまう。