BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

1/29 根をもつことと翼をもつこと

 

*良くない兆候

なんだか少し日本語で日記が書きたくなっているようだ。これはあまり良くない兆候かもしれない。たぶんぐるぐるとアタマの中で考えてることがあるんだろう。気の置けない人とゆっくり話をしたいものです。

 

昨日(いや、この日、1/29)はぐったりしていてほとんど仕事にならなかった。これも良くない兆候だ。テレビばかり観ていた。まあ、それはそれで収穫があったからいいとして(何にでも収穫はあるものです)、ぽやぽやと考えて、寝てしまうと変な悪夢にうなされている。夜に見た夢は、ある男と女が痴話喧嘩のもつれで男が背中から刃物で刺され、わたしはなぜかその瞬間にその男にシンクロし、そのまま救急車で運ばれていったのだが、てっきり入院するものだと思っていたら、あ、帰ってもいいですよ、みたいに言われて、いやいや、これたぶんちょっとマズいし内蔵とかもやられてると思うんで入院させてくださいな、と言って、病院の近くの餃子定食を食べにいくとゆう謎の夢だった。

そういえば昨秋にも入院したいとぼんやり願っていたことがあって(体調崩してガン疑惑があった頃)、つまりは単純に疲れてる、ってことなのかもしれない。やっぱり良くない兆候だ。抱えているものが少し多すぎるのかもしれないので、早々に手放していかないとなあー。残念だけどインプットの量を少し減らしてまずは体勢を整えるしかない気がする。

 

*定住者とノマド

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今、アサダワタルくんが書いた『住み開き 家から始めるコミュニティ』を読んでいて、そこでジェーン・ジェイコブスやジャック・アタリを引用して「定住者」と「ノマド」の関係について書かれているコラムが面白い。アサダくんはこのことをずっと考えてるのだと思う。少し引用したい。

 

「コミュニティは定住者と一時的な居住者とを融合させることで社会的に安定する、そして長期間その場所に留まる人々が継続性を提供する一方で、新参者はクリエイティブな融合を生み出す多様性と相互作用を提供する」(ジェーン・ジェイコブス[1977])

「……ノマドであると同時に定住者でもあるというこの二元性、歴史の始めからあるこの対立の克服、旅への失望を失わないこの定住生活は、グローバル化した世界を人間が生き抜くただひとつの方法だ」(ジャック・アタリ[2010])

 

先日の北九州でわたしが考えたのもこのことだった。アーティストは、ノマドとして地域コミュニティに参入することができる。ただしそこには受け入れる定住者たるアーティストも必要なのだ。そこで両者が邂逅し、アートや情報のハブとなる拠点をつくる。それは決して手慰みの趣味としてのアートに留まらず、地域経済にも波及するだけの力を持ちうる。……これだけ書くと理想論に聞こえるかもしれないので、これはいずれ具体的な事例を挙げて紹介したいと思ってます。

 

昔、アルバイトだったけれども都市計画コンサルティングの仕事の鞄持ちとして、いろんな地方都市を回ったことがある。そこでは中心市街地活性化がメインテーマで、イオンなどの郊外型ショッピングモールに客足をとられてしまった空洞化した町をどのように再生するかについて、みんなアタマを悩ませていた。商店街の空き店舗を使って何かやろう、みたいな話が出てきていたのもその頃だと思う。しかしあまりうまくいっているように見えなかったのは、あるひとつの大きな要素が欠けていたからではないだろうか。それは「人」である。

結局のところ北九州にしても、何人かのキーマンがいるからこそ、いろんな人が外からも内からも集まってくることができる。もちろんここでいう「人」にはアーティストが含まれる。とゆうかアーティストとは、そうした人集めを可能にするハブ的存在なのかもしれない。

 

*根をもつことと翼をもつこと

さてどうしてこんなことをえんえん走り書きしてきたかと言えば、人間の「自由」を考えてみたくなったから。わたしは前々から、できるだけ身軽に移動できる人でありたいと考えてきたのですが、具体的には、東京と、生まれた場所である高知とに、半分ずつ軸足を置くような感覚で仕事をして生きられたらいいなーと思ってきた。フリーランスになってだんだんそれは実現可能な方向に向かいつつある。

ただ、その後いろんな海外の都市に行ってみて(アジアばかりだけど)なかなか地球上には面白い場所がたくさんあるなあと思ったし、日本各地にも様々な場所があることも分かってきたので、東京と高知、とゆう軸はそれほど絶対のものではなくなっている。先日参加した手塚夏子さんの『実験して、接近する』のディスカッションでも「寅さん」の話を出したけども、ノマドたる寅さんに今興味があるのもまさにそのあたりで、一見ただのろくでなしに見える流浪の存在が、各地域に生きる人々にとって意外に面白い効果をもたらすのだとゆうことがあの作品群では描かれている。ニッポンの企業社会的には無駄にしか見えないようなハグレ者が、実は地域コミュニティにおいて機能している、とゆうのはひとつの希望だとも思う。 

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そしてさらに、人間とは何だろうかと遡って考えてみる。ちょうど夜にNHK『ヒューマン なぜ人間になれたのか 第2集 グレートジャーニーの果てに』が放送されていて、それはホモ・サピエンスネアンデルタール人をどうやって駆逐していったかというドキュメンタリーだった。その番組では、投擲具を得たホモ・サピエンスが小動物などを狩ることができるようになり、結果として投擲具を持たなかったネアンデルタール人との勢力争いに勝った、とゆう流れになっていた。もちろんひとつの説として。

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そしてホモ・サピエンスの投擲具はグレートジャーニーによって世界各地へとひろがっていった。人間はつまり道具を使う生き物であり、様々な道具を生み出してきた。そして今やその最強の道具はなんでしょう?と訊かれたら、多くの人が「インターネット」と答えるのではないか。

 

インターネットは、人間の記憶や思考を外部化することができる。これは人間の在り方を大きく変えてしまう革命だった。インターネットの登場によって、人間はコミュニティの作り方、仕事の仕方、ネットワークの作り方、記憶のアーカイブの仕方、情報伝達の仕方、などなどをすっかり変えてしまった。良い悪いは抜きにしてもそのような変化は着実に起こったのであり、今なお進行中であるのは間違いない。

わたしは、ノマド的な生き方が以前よりもだいぶやりやすくなってきたことを歓迎したい。ノマドと定住者、異邦人とコミュニティ、とゆう二項対立もいよいよ終止符を打たれつつあるのかもしれない。誰もがノマドであり、誰もがどこかの土地に根を下ろすような生き方が可能になるのではないか。真木悠介の『気流の鳴る音』にしたがっていえば、根をもつことと翼をもつこと、その双方が可能になる世の中がやってこようとしている。 

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わたしは今のところ「編集者」を名乗ることが多いけれども、編集者とはわたしなりの解釈でいえば「根をもつことと翼をもつこと」を実践しようとしている人間のパターンであると考えている。つまり編集者がなぜ情報とネットワークをその身に蓄積するかといえば、「根をもつことと翼をもつこと」の双方が可能になるから。

編集者やそれに類するノマドワーカーだけが特殊なわけではなくて、こうした人間のパターンは今や多くの人がその気になれば実践することができるようになりつつある(もちろん不可能な職種もあるけども)。様々な試みが実践されようとしている。

人間がある土地に縛り付けられる必要はないとわたしは考えている。いや、世の中に様々な考え方や価値観があるのは知っているし、何らかの理由でその土地なくしては生きていけないような人々もいるかもしれず、また、その土地の伝統をどのように継承するのかといった問題も出てはくるだろう。だけどわたしとしては、その土地に生きることだけが人生ではないのだと言い続けていくのが自分の仕事だと思っている。

 

去年の9月に福島市にいる吉野裕之さんを尋ねた。彼は疎開のネットワークを作ろうとして奔走していた。奥さんと子供は遠方に避難させているが、彼は福島に住んでNPOで働いている。そこでいろいろな相談を受けるとゆう。多いのが母親からの相談であるそうだ。ある主婦は、疎開したいと願っている。だがそれができない。その理由は、旦那がもともと福島生まれの福島育ちで別の土地で住んだ経験がほとんどないがゆえに、他の土地に移りたがらないで「がんばろう福島」に邁進してしまうとゆうことがひとつ。御用学者的な人が必死で火消しをしている姿もあるという。そしてもうひとつの理由は子供である。子供が、学校の友達から離れるのがイヤで移住したがらないケースがあるのだとゆう。「僕がいなくなったら、うちのサッカー部は終わってしまう!」

こうして母親は、旦那と子供の板挟みにあって精神的な負荷を抱えてしまうのだという。

 

一見、人非人と思われるかもしれないが、やはりわたしはその子供にこう言うしかない。「君がいなくなってもサッカー部は大丈夫だ」と。

いや、もしかしたら人がいなくなりすぎたら実際そのサッカー部は存続できなくなるかもしれない。それでも世界には無数のサッカー部が存在するし、サッカーはなくならない。そして君はその新天地でサッカーを楽しむことができる。たくさんの新しい仲間たちに出会うことだってできる。そうなってくると意外とシンプルに、必要なのは、どこにいてもサッカーができるその基礎的な技術にすぎないのかもしれない。

それから、人生のヒミツめいたこととしてちょっと言いたいのは、今その場所を離れたからといって、必ずしも今の友人たちと未来永劫会えないわけではない、とゆうこと。意外と人は再会する。そして再会できる可能性は昔よりも格段にあがっている。人間は今や、その生きている痕跡やメッセージを情報空間に発信するようになったのだから。それはなかなかに素晴らしいことだとわたしは思うね……。

 

もちろんだからといって輝かしい時代は戻ってはこない。通り過ぎた瞬間を取り戻すことは不可能だろう。しかしそれは、どこにいても、どこでどう生きても、やっぱりそうなのだと思う。

執着することと、手放すこと、どちらも大事だと思う。このことはもう少し時間をかけて考えてみたい。