BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

マニラ滞在記3 20日目(2016/6/4)

 

土曜日。朝4時半に起きて、りっきーがクバオの市場にタコを探しに行くのについていく。身体は辛いけど、朝の市場の雰囲気を一度体験してみたかった。なるほどすでに朝のジプニーはほぼ満員で、市場には人がたくさんひしめいている。まるまる1頭の豚がトラックに乗せられていたり、生きたままの魚がぴちぴち跳ねていたり。しかし……タコ(プギータ)はない。「プギータ? それならここにいるわよ」と指をさされた先にいたのは、タコ社長みたいなおじさんだった。

 

10時からはインターナショナルアーティストによる朝食会。フィリピン、日本、オーストラリア、イギリス、スイス……。しばらく食べて珈琲を飲んだ後で、輪になって自己紹介。JKが「No human, before coffee」という名言を吐く。

 

 

演劇クエストの冒険の書がようやく刷り上がった。間に合ってホッとする。が、もう直せないのか、と思うとちょっとだけナーバスにもなる。

 


Green Glass Doorの『Re:visions』。タロットを用い、観客がひいたそれにもとづいて演者ダニエルが何事かを語り、シャーマン的に歌うというもの。歌は非常に通俗的なアメリカンソングであり、5、6回それを繰り返すのは長すぎると感じた。ダニエルは役者として優れた身体能力を持っているので、変に笑いをとろうとしない、もっとシリアスに攻めたほうが深みに到達できるように思うんだけどな。最後は観客が何かを紙に書いて燃やすのだが、そのインストラクションが今ひとつ理解できず、とりあえず「呪」という漢字を書いて燃やしてみた。

 


Russ Ligtasの『D’Oracle at Delpiar』。これも巫女的なもので、あらかじめ観客が書いた質問に踊りながら答えるというもの。3回繰り返す、というのは長さ的にはギリギリOKだけど、これもラスが笑いに走ってしまうために、せっかくの彼の身体的な魅力を台無しにしているように感じた。

 

笑い、というものに依存し過ぎると、ドメスティックになってしまうのではないか。逆に例えばJKたちの『ゴビエルノ』にしても、アイサ・ホクソンの諸作にしても、海外で活動するアーティストたちの作品は構造的な強度を持っており、そこには言語や文化を越える可能性がある。

 


夜はそのアイサが何人かとマッチョクラブに行くらしい。せっかくの機会だから行きたいけど、徹夜のせいでお腹を壊しているし、本番前に無理はしないほうがいいな、と思ってやむなく断念。JJレストランでまたロミを食べる。1人で。

 
……のはずなのだが、ニンヤたちがそのわたしを目撃したらしく、後で、チカラ、土曜の夜に女の子と2人でJJにいたでしょう? あれは誰なの?と訊かれる。3人が目撃していて、まぎれもなくチカラだったと言う。ほらその帽子、まったく同じよと。確かにあの場にわたしはいた。でも誓って言うけど、ひとりだったのだ。もしかしたら幽霊……? マリキナの幽霊教会に行ったせいかな……。

 

 

デュッセルドルフでテロ未遂の騒ぎがあったらしい。容疑者がつかまって良かった、とは思うけど、「良かった」とひとことでは済ませられないものがある。テロリズムは日常の幸福を脅かしている。疑心暗鬼や憎悪をかきたてようとしている。その暴力に対しておそらく別種の暴力で抑えこむことは完全には不可能だろう。というかテロリズムは、そうした(武力による)完全制圧がもはや不可能であるという事実をこの世界に突きつけている。

 

ではアートには何ができるのだろうか?と考えてしまうのは悪い癖かもしれない。けれどまったく考えないというわけにはいかない。果たして今、デュッセルドルフムスリムたちはどんな立場に置かれているんだろうか。あの飾り窓の人たちはどうしているだろう。そしてハイネ・ハインリッヒ大学にいるシリアの難民たちは……?

 

 

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