BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

韓国・安山滞在記4日目

 

ゆうべは結局、明け方4時頃まで多田さんとソジュ(韓国焼酎)を呑みながらぽつりぽつり話した。なんとなく昔話とか(リトルモア地下のことなど)。多田さんと出会ってから何気にもう8年目くらいになる。

 


9時に起床。チュオタン(ドジョウ鍋)で腹ごしらえをしてから、フェスティバルセンターでフォーラムに参加する。壊したお腹がまだぐずっているし、パラソルがあるとはいえ屋外は熱い。韓日、韓英の通訳がつくが、専門の通訳ではない。テーマも「ストリートアートと地域のフェスティバル」だけでなく、「セウォル号の後でアーティストは何をするべきか?」も扱うということを今知らされた。なるほどそういうことであれば準備の仕方が全然違ったんだけど……仕方ない。メンバーは、オーストラリアとスペインのアーティスト、そして韓国各地のフェスティバルディレクター。日本からはわたしと多田さんの他に、静岡で25年大道芸のフェスをやってきた甲賀雅章さん。

 

議論は、
・現代において、地域性なんて果たして本当にあるのか?
・何をもって市民参加とするのか?
・市民参加は芸術のクオリティを下げ、結果的に芸術の場所を奪うことにならないか?
・フェスティバルの成果が数で判断されるのはいかがなものか?
・芸術の役割とフェスティバルの役割は分けて考える必要があるのではないか?

 

……といったトピックをめぐることになった。韓国にも日本と似たような問題意識があるということになる。議論は白熱していた。特にスペイン人アーティストのカルラ(Carla Rovira)が「金、金、金! 数なんて関係ない! 美学的クオリティだってここにいるそれぞれで違うでしょう!」となかなかに熱く言い放つものだから、感心して聞いていたのだった。

 

わたしは日記の2日目に記したような問題意識、つまり10人の観客しか一度に体験できない演劇と、この広場に集まっている数千人の人たちを楽しませるフェスティバルとのギャップについて話した。わたし個人としては正直なところ、たった10人を相手にした作品に強く心を動かされました。フェスティバルを運営する人たちには、お金も含めた様々なことに配慮し、動かしていく力が必要になる、ということは理解できます。しかしアーティストや批評家は、みずからが信じる道をいくしかないのでは?

 


情熱的なカルラに、昨日のあなたのパフォーマンスは雨で流れてしまって残念でしたね、と伝える。「そうなの。今日も15時からあるわよ。あなた韓国語は理解できる?」「No」「OK、私もよ。英語のスクリプトがあるからメールするわね」……ということで長文のスクリプトを送ってもらう。『While the Machine Keeps on Running』。読んでみるとアンティゴネーをモチーフにしているらしい。

 

15時に広場に着くと、20人近い10代の少年少女たちにカルラが気合を入れている。地面に敷かれたマトリックスの上を、少年少女たちが歩く。時には走る。スローモーションになる。そして痛みを感じる。やがてコロスとして何人かが喋り出す。続いてオイディプス、アンティゴネー、ハイモーン、クレオーンらに扮した子どもたちがそれぞれの言い分を語り始める。クレオーンによって兄を弔うことを禁じられたアンティゴネーの嘆きは、もちろんここ安山では、セウォル号事件のことはもう忘れて前を向きましょう、とする韓国社会への告発と繋がっている。観客はというと、簡単な手拍子の振付を伝授されるのを皮切りに、喋りたい人にマイクが手渡される時間があったりなど、じわじわと観客参加の色合いを強めていく。やがてクレオーンは(観客も含めた)民衆たちの声によってついに王を退位する。そして最後はみんなで「あーーーーー!」と空に向かって叫び、輪になって、胸のところで腕をクロスして互いに手を繋ぎ、セウォル号の犠牲者のことを弔ったのだった。わたしは、2014年の12月に見た、檀園高校の教室のこと、珍島の冷たい海のことを思い出していた。繋いだ手から、隣人の悲しみが伝わってくる気がした。

 


General Kunstというプロジェクトチームによる『Avec Moi : a Foreign Stranger』。ヘッドフォンを装着した15人ほどの参加者に、おそらくは何か指示が出されており、それによって彼らがめいめいに動く……というクレバーでスタイリッシュな観客参加型作品。外から観るだけでなく参加者として体験してみたいな、と思ったが、ヘッドフォンに流れている声はおそらく韓国語だろう。

 

 

6時間の巡礼を終えてきた多田さんと再合流し、アイサ・ホクソンの2本立てへ。どちらも観たことのある作品だが、『ポールダンサーの死』は、最初のセットアップの時にアイサがポールを揺らすたびに劇場空間が大きく振動した。今も揺れている熊本のこと、5年前の震災のことを思う。この劇場は崩れない、ということを信頼するしかない。アイサのパフォーマンスと、それを観ている観客の命は繋がっている。

 

『マッチョダンサー』は圧巻のひとこと。恐ろしくパワーアップしていた。様々な都市に行き、ひとりひとりの観客の顔を見つめてきたことが、彼女のパフォーマンスをここまで育て上げたのだろう、と想像した。楽屋で、あんな巨大なペニスつけてたっけ?と訊いたら、え、前からあったわよ、何を見てたの?とのこと。

 

 

アイサと初めて会ったのは2014年のマンハイムだった。意気投合したSinta Wibowoと食事に行った時に、彼女も一緒だった。次の日、フェスティバル(Theater der Welt 2014)が企画した『X-Firmen』というツアーパフォーマンスに、アイサも参加していたのだった。彼女はスポーツジムで待ち受けていて、観客を椅子に座らせると、その眼前に近いところでパフォーマンス(ジムの運動を模したもの)をして、観客にその肢体を見せつけるのだった。それは露悪的なエロチシズムと隣合わせだが、不思議と嫌な気持ちにはならなかったし、性的欲望とも切り離されているように感じたのである。その数日後に観たのが『マッチョ・ダンサー』で、彼女は足を怪我していたにもかかわらず、素晴らしい集中力によるパフォーマンスを見せてくれたのだった。

 

アイサはJKアニコチェのハウスメイトでもある、と後で分かった。世界は広いようで狭いし、狭いようで広い。彼女は世界中を飛び回っているので、留守にしていることが多く、何度か彼女の部屋で寝泊まりさせてもらっている。高校時代の彼女の恩師にも会った。彼女の生活圏に入ったことで、わたしはまた別のヴィジョンを得ることができた気がする。ひとりのアーティストがこの世に生きるということについての。

 

 

多田さんに案内してもらって、もつ焼きの店が並ぶストリートへ。店の向かいには巨大なモーテルがあり、その同じビルには、カラオケやマッサージの店が入っている。もつ焼き屋のおばちゃんが腕をつかみ、愛想よく、しかし半ば強引に引きずり込む。美味しかった。多田さんは少し高いと言っていたが、だいぶ食べて呑んでひとり30000ウォン(3000円)なので、日本の感覚からするとそんなに高いとも感じない。

 

夜風が寒くなってきた。1時頃ホテルに戻り、朝の5時頃までソジュで第2ラウンド。

 

 

 

 

 

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