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BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

アンジェリカ・リデル『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』

 
アンジェリカ・リデル初日を観てきました。「ひとつだけ」をこれに賭けて良かったと心底思いました。あの広さで、スタンディングでブラボーと叫んだのがただひとりわたしだけで寂しかったけど全然かまいません。それは単に観劇習慣の違いにすぎないからです。しかしあの壮絶プレイをしていることに敬意を払う人間がこの東京にもいることは知らせたかった。ひとり。ただひとりでも。それが重要だと思います。あらゆる芸術は結局は最終的にただひとりで切り結ぶものだと思っています。別にわたしは日本人の代表はできない。状況的に、この公演がこけたら二度とリデルは日本に来られないだろう、いや、あらゆる挑戦的な海外演目(特にヨーロッパ。2020年まではアジアはまだ厚遇されるからさ)を招聘することが難しくなるとして、それを日本の、っていうか東京の観客および潜在的な観客たちが選んだのなら仕方のないことだ。それが民主主義なのだ。なんてファッキンなんだ民主主義! とにかくわたしは今の時代に必要で、その結果として後世にも語り継がれるであろうものを観たいだけで、それがもう日本で不可能になるなら別の場所を探すしかないということになる。去年、マンハイムでこの作品を観た時に、わたしは衝撃を受けて、もう「日本の演劇」だけのために仕事をするのを辞めた。その時はっきりそう思ったわけではないけど、今夜思い出した、そう、あの時わたしはそのように変化したのだった、リデルのあの舞台によって。彼女が単なるヨーロッパ中心主義の露悪狂でないことは理解する必要がある。どんな感想を抱いてもいいができるだけまずは情報、起きていることをフェアに受け止める必要があると思う。そしてこれを拒絶することによって我々(誰?)が失うものの大きさを思い知るがいい。結局のところこの国の舞台芸術は、ごく一部の、鎖国根性の西洋コンプレックスのコンサバ爺いが自分の権力を保持するためだけに一部の保守的なオワコン演劇を崇め奉ってきたという話で終わるのか? いやいやそうではないだろう。そんなことは言わせないでいただきたい。まあ誰を信じるかは個々の判断なのだし、わたしのことなんて信じたくないならそれでもけっこうだ。泥舟に乗って沈みたい連中に足をつかまれるのはわたしも嫌だからよう。我々はウトヤのことを知っていたのだろうか。正直わたしは去年この舞台を観るまでほとんど知らなかった。さてパリについてはどうなのだろう。上海についてはどうだろうか。そして東京については何ごとかを知っているのだろうか。知らない、ということについての畏れがない人間は信用するに値しないと思っている。とにかく、観てくれろ! そして別にがまんしなくていい。気に食わなければとっとと劇場を去ればいい。それは断絶だろうか。誰が、どんなふうに引いている断絶だろうか。わたしは海外に行く時、少なくともまず自分の色眼鏡で判断しないでその土地や都市のあり方をできるだけ吸収してからものごとを判断するように心がけている。もちろんわたしにだって審美眼はある。あなたのそれよりも強いかもしれない。それでも、まずは相手を知りたい。それは罪だろうか? 他者との共生だと? 他者を知りたいだと? いったい今まで誰がそれをしてきたのだろうか。誰が、この国の演劇を豊かにしようと本気で考えてきたのだろうか。もちろん先人たちはいた。わたしはもはや残念ながら違うらしい。さっきも言ったように、わたしはもうそれを去年やめてしまったからだ。リデルのせいで。この舞台のせいで。