BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

山縣太一×大谷能生『海底で履く靴には紐が無い』

 
横浜STスポットで上演されている山縣太一×大谷能生『海底で履く靴には紐が無い』は、繰り出されるダジャレも含めて極めて微妙な空気が流れ続ける作品で、一見して明らかに負担の大きい大谷能生に「よしおさん、大変っすね、がんばってくださいね」と激励の言葉をかけたくなるというのが、まず最初に抱いた感想というか感慨だった。が、この公演には重要な問題提起が含まれており、それは書き留めておいたほうがいいと思うので、そうする。

とりあえず感じたこと、4つ。



▼1 現代演劇=コンテンポラリーダンスの再接続

冒頭からの動きは完全に手塚夏子のダンスを彷彿とさせるものだった。彼女のダンスを観たことがある人ならば、この点には同意していただけると思う。ちなみにこの週末には、横浜・長者町で彼女のワークショップや過去作品の上映会も開催されるらしい。
http://natsukote-info.blogspot.jp/2015/06/chapvol2.html

さて「太一メソッド」と称するにあたって山縣太一がどうアレンジしたかはわからないが、今作のチラシにも「ダンサー手塚夏子から身体の細かい意識の持ち方や身体を変化させる事で感情も操作する技術を学ぶ」とはっきり書かれているように、彼なりに手塚の方法論を継承しようとする意志を感じる。これはある種の「先祖返り」であり、大きく言えば演劇=ダンス史の書き換えを目論むものでもあると思う。

というのも、山縣太一が長年出演し続けてきたチェルフィッチュは、そもそもコンテンポラリーダンスの影響を受けていて、そこには手塚夏子という存在があるはずだ。しかし『三月の5日間』以降、主宰の岡田利規はそのダンス的な身体の動きにある種のデフォルメ化をほどこすことによって、演劇作品として、どうすれば観客により強い働きをもたらすことができるかの試行錯誤を重ねていった──すなわち、ダンス的に身体そのものを追究するよりも、上演の際の演劇的な効果のほうに関心を寄せていった──というのがわたしの理解(仮説)である。いずれにせよ、話法、俳優の立ち方、フィクションの作り方などにかんして、チェルフィッチュの影響が小劇場シーンに波及していったのは確かな事実である。言い換えれば、多くの若いアーティストや観客たちが、チェルフィッチュの存在を通して、(手塚夏子を含めた)コンテンポラリーダンスのエッセンスに(意識する/しないに関わらず)触れることになった。

だとすると、チェルフィッチュを最もよく知る人間のひとりであるはずの山縣太一が今回試みているのは、チェルフィッチュによってもたらされた方法論的革命(仮に「三月の5日間革命」と呼ぶ)を経由することなしに、あらためて、コンテンポラリーダンスと演劇をもう一度自分たちの手で接続し直すという試みではないだろうか?

もちろんこれは単に時計の針を巻き戻しているわけではない。例えばあるシーンでは、大谷能生と岩渕貞太が2012年にやはり同じSTスポットで上演した『living』も思い起こされた。大谷は音楽家として近年の演劇やコンテンポラリーダンスのシーンに密接に関わってきたので、彼のアイデアもこの現場に何らかの形で混入している可能性がある。


▼2 大谷能生は俳優なのか?

その大谷能生は音楽家・批評家としてキャリアを積んできた人間であり、舞台にはパフォーマーとして何度も立ってきたものの、プロの俳優として生きてきたわけではない。そんな彼を主演として起用することは、この作品の生命線になっている。次の公演も『犬人間 能生』という(超傑作か駄作かの両極端を予感させる)恐ろしいタイトルらしいから、ひとまずは継続的な展開を想定しているものと思われる。

プロの俳優は舞台に立つことに慣れている。明確なキャラクターがあるにせよないにせよ、何らかの仮面を身にまとい、言葉やイメージを観客に届けようとする。良い俳優は、この、届ける力に秀でている。そういう意味では、俳優とは、純粋な役目を負った使者であるとも言える。彼らはそのために、不純物を削ぎ落とす。

しかし大谷能生はというと、良くも悪くもこの純粋さを欠いている。俳優が舞台に登場した時のお約束──すなわちこの人は何かを届けてくれる使者なのだ──という前提が成立するより前に、なんだかよく意味のわからない存在として観客たちの前に現れる。とりあえず観客にできることは彼を注視することだけだが、汗をかきかき熱演する彼を見続けていってもやはり、彼が俳優=使者であるという確証を得ることはできない。だから非常に微妙な空気が流れ続ける。

一方、大谷を援護射撃している松村翔子は明らかに俳優である。それも優れた技術を持った俳優であることが、ちょっとした演技ひとつ立ち方ひとつにしても一目瞭然であり、彼女が何らかの密命を帯びてこの場にいることも観客はただちに理解できる。だからこそ観客はますます大谷の存在に戸惑うことになる。このうだつのあがらない中年男を演じているのはいったい誰なんだ……と。いやおそらく観客の半数以上は大谷のプロフィールは知っているだろうし、彼の活動に触れたことのある人も少なからずいるはずだ。したがって彼が本当はうだつのあがらない中年男とはひと味もふた味も違うことは知っている……が、不思議なことに、この目の前のあられもない姿こそが、大谷能生の正体であり真の姿ではないかという気もしてくるのである。もちろんこれは彼の演技に騙されているということだ。いやしかし騙されていると言っていいのか。というのも彼は手塚夏子=山縣太一のメソッドによる振り付けを実践しているのであり、わたしが思うにそれは嘘のない状態で(イメージとしては身体の内発的な声に耳を澄ませるような形で)その場に立っているということに他ならない。要するに、嘘ではないが、嘘……という奇妙な状態で蠢いているこの男を、観客は注視し続けることになるのだった。


アフタートークやチラシ等から推測するかぎり、山縣太一は、俳優という存在を再考しようとしている。もっと言えば、「再考しましょうよ、みなさん!」と訴えかけている。それは一方では俳優の置かれた立場(彼の言葉によれば、演出家と俳優はしばしば「ボス・カス関係」になってしまっている)を改善したいという要求でもあるし、また一方では、俳優の演技方法そのものに対しても問題提起したいということだろう。

そしておそらくは山縣太一にとって、大谷能生の身体というのは、彼が自身の俳優論を世に主張するにあたって、ある種の(暫定的であるにせよ)運命共同体として賭けてみたい身体なのだろう。


▼3 テクストについて

苦言を呈したいこともある。今回はセリフが非常にミニマルに繰り返されるのだが、それは「実験」としては悪くない。しかし反復からの展開がほとんどないために、大谷の身体への負荷ばかりが際立っていく構成になっている。それはそれでひとつの作戦としてはアリだと思う。が、負荷をどのように演劇作品として回収するか(負荷を受けての身体の変化を際立って見せるなど)が今ひとつ明瞭に意識されていなかったようにも感じる。

もし「作・演出」と名乗る、つまり劇作をするということであれば、それ単体として読んでも魅力的に思えるくらいの戯曲を書くか、あるいはこうした身体的実験に伴走していくだけのコンセプチュアルな必然性をもっと強く持ったテクスト(この場合は設計図に近づく)にする必要があると思う。

今のところ個人的に感じているのは、上に書いたような「俳優の再考」がメインテーマなのであれば、別に劇作を名乗らなくても、古典作品を演出してもいいのだし、せめて何かの物語をベースにして翻案するとかして、もっと言葉や物語で転がしていける部分があるのではないだろうか。



ちなみに、これはこの機会に広く一般に言っておきたいことなのだが、「公演」と「実験」はもっと明確に区別したほうがいいのではないかと思うことがある。もちろんあらゆる作品は実験的な要素を持っているものだし、わたし自身の嗜好としても、実験精神に溢れた作品のほうが圧倒的に好きである。そういう実験精神に触れるからこそ何か書きたいと思ったりする(この文章もそうである)。井土ヶ谷のblanClssが実践しているような「友だち以上、作品未満」というコンセプトにも共感を覚える。アーティストにとって(そしてもしかしたらわたしのようなある種の観客にとっても)、実験的な場は不可欠である。今回の公演会場であるSTスポットにも、そうした実験的な場としての大事な性格がある。

しかし時折、これは人に見せるよりも前に、まずはあなたのアトリエや稽古場でもっと熟慮して練り上げてからにしてくださいね、と憤慨したり呆れたりするようなものに当たってしまうこともある。甘えすぎではないか。そこに共通しているのは、観客に対する意識の欠如である。彼や彼女は自分の理論や方法やアイデアや美意識にばかりご執心で、人を呼んで、その観客とどのような時間を過ごすのかを忘れてしまっている。わたしは演劇というのは作り手と観客のあいだに起きる現象だと思っているし、それこそがスリリングだと感じるから、そこが蔑ろにされているのを見ると残念な気持ちになる。
 
あるいは「実験」と称しながら、(不確定要素である)変数が多すぎて、結局のところ仮説と結果の因果関係よくわからないものも多い。実験には理系的な思考も必要だと思う。それは実験ではなくて、ただやってみた、にすぎない。

さて何が言いたいかというと、もしも実験的なトライをしたいのであれば、公演という形でなくても、ワークインプログレスのような形で仮説を試してみて、集まってくれた人たちからフィードバックをもらう方法もあるということだ。なんでもかんでもワークインプログレスというのも(言い訳がましくて)好きではないけれど、いきなりフルスケールの公演という形で勝負しなければならないと誰が決めたわけでもないし、逆に言うならば、公演という形をとる時はもう言い訳はできないところまで引き上げてから勝負してほしいとも思う(もちろん大いに議論はしたらいい)。

こう書きながらも、正直な気持ちを書くと、本当はもっと実験精神に満ちた作品群が、もっともっと世の中に溢れていけばいいと思っているのである。溢れかえればいいと思うのである。別によくできた作品を観たいわけではないのだから。しかし(一時的なことなのかもしれないが)わたし自身が以前よりも忙しくなってしまって、なかなかいろんな有象無象の作品を気軽に観に行くことが難しくなってしまい、かといってざっと見渡してみても、他に実験的な作品が好きでかつその試みをできるだけ丁寧に言葉にしていこうとする若い批評家的人物がそんなにたくさん現れてきているわけでもない(よね?)、という現状を鑑みると、わたしとしても自分がエネルギーを注げる仕事の領域にかんしてある程度狙いを定めていくほかない。圧倒的に手が足りないのである。だがせめて作品をつくる側も、誰かが自分たちの素晴らしい実験的な挑戦を誰かがきっと目撃して褒めてくれるはずだなどという淡い、白馬の王子様みたいな期待は持たず、そんな人間はいたとしたらむしろ天然記念物並みに希少なのだ、と考えて、自分たちの手でどうやってみずからの活動を言説化・アーカイブ化できるかをよくよく考えていただきたい。たまに、自分たちの活動を評価しないのは劇評家の怠慢のせいだ、などと恨み節を言う人を見かけるけれども、劇評家だってそこらへんの水溜まりから湧いて出てくるわけではなく、批評眼と筆力を持った人間を育てていくことだって演劇人の仕事なのであり、ではあなたはそうした仕事をしているのかと胸に手を当てて考えてみるがいい。自分は才能があるのだと信じて疑わず(そう思わないとやってられないのかもしれないが)、のん気に構えて「どうでしたか?」的な顔で突っ立っているのを見ると、たのむ、もうひと踏ん張り考えて、あとはいいドラマトゥルクなりなんなりを見つけて意見交換して、自分ひとりの頭だけでやらないで……とか愚痴のひとつもこぼしたくなるのだった。

だいぶ逸脱するような形になってしまったけれど、なかなか書く機会もなかったので今書いてしまいました。



▼4 キャスティングについて

『海底で履く靴には紐が無い』に話を戻すと、宮崎晋太郎の位置が宙ぶらりんでもったいなかった。わたしは彼が良い役者だと思っている人間のひとりである。彼をどう活かすかは演出の仕事だし、そもそもキャストをどう構成するかも(商業演劇でないのなら)演出家や主宰がしっかり考えないといけないところだと思う。




さて、こうして振り返ってみると1と2は演技論として大事であるようにも思う。ただわたしは少し前にも余談として書いたように、根本的に、日本国内のドメスティックな演劇状況への関心をほぼ失ってしまっている。確かに身体のことは大事だとは思う。しかし、例えば日本人がマニラに3週間滞在したとして、そこで異なる環境に触れて生じる身体的変化もまた劇的であるし、例えばマニラや北京やソウルに住む人たちが様々な立場で置かれている政治的・文化的な背景もかなり気がかりなので、それなりに生きていける日本人の、うだつのあがらない中年男性のちょっとした悲哀、ということには今はあまり興味が持てない。勘違いする人がいるといけないので念の為に言っておくと、別に日本人に興味がないわけではない。

演劇は身体と同時に言葉も使う芸術である。言葉を通して遠くからのイメージを運んできたり、言葉を介して対話を生み出そうとしてきた。つまり言葉は、演劇の武器でもある。

次回作の『犬人間 能生』が、演劇作品なのか、もっとコンテンポラリーダンス寄りになるのかはわからないし、そもそもそんな腑分けは意味がないという意見もわたしの中にはいちおうあるのだが、そうはいっても演劇的な面白さにより迫るものではあってほしいと思う。だからわたしは山縣太一がチラシの冒頭に書いていた「僕は演劇を観て面白いと思った事がないんだけどそれはなんでなんだろうとずっと考えていて今も考え中。」という一文が気にかかっている。少なくともわたしは演劇を観て面白いと思ったことがある。結構ある。ほとんどの演劇の表現者はみなその経験を持っているはずだ。そこがちょっと引っかかる。ただ、その後に続く一文、、「でも一番観たいのはなんだかよくわかんないけどすごいというのが観たい。」という言葉にはいたく同意する。



山縣太一×大谷能生『海底で履く靴には紐が無い』
http://stspot.jp/schedule/post-158.html