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BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

六本木アートナイトのスイッチを考察してみる

review

 

明日からしばらくマニラなので旅支度をしなければならないのだが、心残りがあるので日本にいるうちに走り書きになるけれど記しておきたい。六本木アートナイトでのスイッチ総研(2015年4月25〜26日)について。大健闘だったと思う。六本木の街を疾走するスイッチ総研・光瀬指絵と大石将弘の御姿を時折お見かけしたけれども、商店街との交渉やら何やら大変だったに違いない。小劇場演劇界の名だたる俳優と制作者がずらりと勢揃いした夢のような企画であった。敬礼したい。

 

ただ個人的にはこの六本木アートナイトという一大イベントが、一体誰のどんな欲望で動いており、何を目指しているのか、よくわからなかった。はっきり申し上げるならば巨大な資本の動く「アート」のゆくすえに不信感を抱いたと言ってもよい。もちろん全貌を把握できたわけではないし、批判するに足るだけの論拠を揃えているわけでもなく、それに足るだけの労力をわたしが払っているかと言われればそれはノーである。まあ見たところ、無料配布されるアートナイトの冊子を町なかで手にしている人は何人もいたわけだし、イベントの時間帯になれば、パフォーマンスを目視することが困難なほど人が群がっていた(そして「見えねーよ」とか言って作品や作家に対する敬意も何もなく彼らは散らばっていった)。そしてたくさんのアーティストたちが招集された。動員、という言葉がこれほどふさわしい夜もないだろう。

 

ともあれ「ちょっとアートに触れてみたい」と思い、またそれによって「六本木の夜」とか「アート」に触れることができたという手応えを感じてくれそうな観客層というものが想定されていることは想像できなくもない。果たしてそれが、「アートの垣根」とやらを下げることに成功し、結果的にアートに触れる人口が増えて良かった良かったという話でいいのかどうか? わたし個人はそうしたライトなアートファンみたいな客層にほとんど可能性を感じることはできないけれども、まあ、窓口というか入口が複数あるのは悪いことではないだろう。本当に芸術を必要としている人の元に届かなくなる、というような事態さえ招かなければ。

 


さてしかし、そうしたライトな客層がメインであるということは最初から予見できたわけである。では、我らがスイッチ総研はどのようにしてこの状況に立ち向かったのであろうか?

 

24時から参加した「六本木ヘルズツアー」と題した地獄めぐり的なツアースイッチ(参加者がグループを組んで、各所に仕掛けられたスイッチを順番に回っていくツアーパフォーマンス)は、まさに文字通り「役者が揃った!」感じで、素晴らしい時間を過ごさせていただいた。俳優たちは単にアドホックな(その場かぎりの)目の前の観客とのやりとりだけに従事しているのではなく、同時に、このツアースイッチの一連のシークエンスに流れている時間を想像していたのではないか。いや、彼らの想像力がどう働いていたのかはともかく、少なくともいち参加者であるわたしとしては、そのような「流れている時間」を感じることができたのだった。同行していた他の参加者との他愛ないお喋りも楽しくて、「ではまたどこかでお会いしましょう〜」と言って一期一会で別れていくさっぱり感も良かった。

 

商店街や美術館など各所でのスイッチも、それぞれの技が駆使されていた。スイッチのひとつひとつはほんのちょっとした小芝居にすぎないのだが、やはり優れた役者はそれでも人の心をつかみとってさらっていく。たとえば、六本木ドン・キホーテの店先で熱唱する大重わたるの姿はしばらく忘れられそうにない。

 

ただここでスイッチにまつわる「あの問題」が登場する。スイッチの「連打」である。これはたとえば象の鼻テラスで行われるスイッチでも、高校生の一団などがやってくると悪ノリして連打を始めるという例をさんざん見てきた。わたし自身も経験があるのだが、演じる側としてはそれでもその連打に可能なかぎり応えようとするものだし、さりげなく中止されるほうに持っていこうと試みたりはするのだが、いったん連打のノリになってしまった暴走野郎を止めることは難しい(何かに取り憑かれたように連打する彼らを見ていると、人間はどんな酷いこともやるだろうな、と思う。ちなみに一人で連打する人間は皆無である。集団心理が働いているのだ)。とにかくこの連打というものについては以前からどうなんだろうと考えていた。

 

……で、結論としては、連打はやっぱり良くないと思う。そこにはある重要なものが欠落している。それは「畏れ」である。

 

演じている俳優たちへの敬意を欠いている、ということもある。連打する人間はもはや相手を人間だとは考えておらず、意のままに操れるオモチャくらいにしか思っていない。やつらはきっと俳優が電気椅子に座っていてもスイッチを連打するだろう。もちろん意のままに操れるというのは勘違いにすぎないのだが、そうした勘違いを与えてあげることも演劇のひとつの役割かもしれないから、まあそこは百歩譲って目をつぶってやってもよい(電気椅子のような危険がなければ)。

 

しかし問題は、「スイッチを押すと急に世界が変わる」というこのきらめくようなファンタジー(おそらくスイッチの最も重要な核心部分)が、連打の前ではまったく消えてしまうということだ。ある観客の、そのスイッチを押すか、押さないか、という一瞬のためらいの中にある「畏れ」こそが、次に起こるできごとを「奇跡」へと昇華させるはずだが、連打の前ではそうした奇跡の芽もただの小芝居の反復運動に埋没してしまう。反復している人間の姿は滑稽なので、それを見て「ぎゃははーわははー」と喜ぶことができるのは知っているが、わたし個人の意見を言えば、そうまでして他人を喜ばせたいとは思わない。アトラクションが欲しいのであればネズミの国にでも行けばいい。ミッキーや海賊たちがきっと彼らの心を癒してくれるだろう。

 

奇跡、という言葉を今使ったが、それは本当にそうで、何が奇跡かといえば、たとえば子どもが奇術師の繰り出す手品を見て、ぱあーっとその世界の変化に驚いた時に、やっぱりその驚きを受けて奇術師のほうも喜びを感じるとする。これが奇跡である。つまり奇跡というのは、驚きと喜びが、そして誰かと世界、誰かと誰かが(繋がりようもないように見えたそれらが)一瞬にして繋がるような時にこそ成立するものだ。

 

そして奇跡が起こる時、そこにいた人たちのモノの見方や価値観がスッと変わったりするのである。

 

これこそ、芸術の力ではないだろうか。

 


総勢100人というメンバーで、各所に様々な仕掛けを配置するというだけで、それはもう繰り返すが、大健闘なのだ。しかしではいったいこれらのスイッチを、誰の、何のためにやっていたのか? そこが少し弱かったのではないだろうか今回のスイッチ総研は。仮に「お客さんを喜ばせたい」のだとすれば、どのような喜びをもたらしたかったのか。お客さんの心には何が残るのだろうか。何を残したいのか。

 

素晴らしい俳優や制作者がずらりと揃っていたにもかかわらず、いわゆる「演出家」が不在だった、とも言える。演出家が果たして必要なのかどうかはひとまず置くとして。

 

演出家といってもいろいろだが、わたしが面白いと考える演出家は何らかの形で「たくらみ」を持っている。彼や彼女は時として観客に対して挑発的に仕掛けることがある。そうした態度は、観客に対する不信や悪意と隣合わせで際どいのだが、まあとはいえギリギリの土俵際では観客を信頼している(と思う)ので、えいやっとそのたくらみを遂行するわけである。嫌われる可能性もあるわけだしリスクは大きいのだが、それでもやる。一種の賭けである。それは、彼や彼女が指揮する集団としての賭けでもあるし、彼や彼女個人としての賭けでもある。優れた演出家は観客を盲信していないし、観客にただ奉仕するようなことも考えていない。観客は変わる生き物だし、それを変えたい、と考えるのがおそらくは演出家の性(さが)なのである。

 

アーティスト、と呼ばれる人たちもきっとわりとそうである。違いますか?

 

わたしは好きではないがお祭り騒ぎもそれはそれで楽しいのかもしれないし、六本木の街をアートを名目とした一夜かぎりのアトラクションにしたいのだとしたらそれでもいい。じゃぶじゃぶ金を稼いでじゃぶじゃぶ金を使う、という消費欲望の権化とも言えるような街なのだから。ただし、そこにアーティストがいたずらに動員されるのだとしたら、アートというものはひどく空疎なものになっていくのではないか。だからそれぞれのアーティストがそれぞれの現場で何らかの「たくらみ」を持っていくほかない。動員の論理はこのあと5年間はますます加速する傾向にあるだろうから、その時、それぞれのアーティストが何を考えて何をたくらんでいくかはそれなりに重要になってくる。

 

ちなみにこの夜、わたしの心に最も印象深く残ったのは、ツアースイッチで回っている途中、パフォーマンスを終えた後の俳優たちが振りまいてくれたちょっとした笑顔だった。与えられた役からちょっとはみ出した特別な時間の俳優ほどキュートなものはない。

 

 

 

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