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BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20140312 r:ead、民俗芸能調査クラブ

F review

 

朝、にしすがも創造舎でr:ead(レジデンス・東アジア・ダイアローグ)の最終プレゼンに参加。r:eadは相馬千秋さんが進めているプロジェクトで、この日はゲストコメンテーター的に朝の台湾チーム(ゴン・ジョジュン&ドゥ・ペイシー)のプレゼンだけ参加した。

 

日中韓の3言語による通訳(英語は使わない)が入るのでコミュニケーションは必ずしも円滑ではない。それでも対話を重ねていこうとする意義は大きいと思うし、それは相馬さんの言い方に倣えば、東アジアでの共通言語/プラットフォームを構築する試み、ということになる。演劇にかぎらず日本の芸術のシーンはほとんど閉ざされていて、外部と没交渉になっている、という意見はよく聴くけれども、それにはわたしも概ね同意せざるをえない。主要なマーケットを形成しているヨーロッパからも、おそらくほとんどオリエンタリズムの対象としてしか受け止められていないのではないか、と感じる。最初の渡航の入口としてそのような視線に晒されることがやむをえないとしても、できればそうやって一方的に搾取・消費される関係から抜け出て、新しい世界を見たい。アジア/東アジアというフィールドで何ができるのかを考えていくのは、だからとても大事なことだと感じている。

 

r:eadは批評家・キュレーターとアーティストをセットで招聘している。立場や素養やアプローチの異なる2者が組むことによって、視差(パララックス)が生まれ、複眼的なひろがりが生じていくようにも感じた。というのも、アーティストがどうしても最終的に「作品」としてのアウトプットを求められるのに対して、批評家やキュレーターは必ずしもそのようなミッションを帯びていないのだから。台湾で批評媒体の編集長を務めるゴン・ジョジュンのプレゼンテーションもまさにそうで、映画『珈琲時光』のロケ地めぐり的なフィールドワークをメインとしつつも特に結論はなく、あくまでも遊歩と考察を重ねているだけだった。最初にコメントされた湊千尋さんがベンヤミンを引き合いに出していたけれども、確かにこの手つきはベンヤミンのそれ、とりわけ断片的な文章や引用を連ねていく『パサージュ論』に近いと思う(……という話はあとで湊さんやゴンさんともした)。

 

r:eadのプログラムでは、滞在期間は総計で3週間ほどであり、ひとつの作品をつくる期間としては決して長くはない。というか短い。どこかの都市や町について詳しく知ったり、誰かと深い関係を構築していくためには、十二分とは言えない。けれども、だからこそかえって「ストレンジャー」としての目線をキープできる部分もあるのではないかと思った。AIR(アーティスト・イン・レジデンス)の取り組みは現在のところ、ある地域と密接に関わることのほうに重点が置かれているようにも思うけれども、わたしはむしろ、アーティストがストレンジャーとしての状態をキープすることが大事である、ということは今後もしばらくは繰り返し主張していきたい。これまでも何度か言及してきたけれども(例えばこれとかこれとかこれとか)、あるコミュニティにとって、外からの漂流者(マレビト)の意義はもっと見直されていいと思っている。というか、そうした存在を失った時、コミュニティは自閉して滅びるほかない。

 

堀江敏幸の「のぼりとのスナフキン」という文章(『おぱらばん』所収)で、ムーミン谷とスナフキンに関する興味深い記述があった。スナフキンが放浪していられるのは、ムーミン谷という帰っていける場所があるからだ、という話だったと記憶しているのだが、裏を返せば、ムーミン谷にとってもスナフキンは必要不可欠な存在なのである。

 

本当は他のチームのプレゼンも聴きたかったけども、後ろ髪を引かれつつ、一路、横浜へ。

 

 

STスポットで、民俗芸能調査クラブ(部長:手塚夏子)の発表会に参加。数年前のこのクラブもとても興味深かったのだが、今回も大いに刺激をもらった。途中、演劇センターFのメンバーでSTスポットの事務所を訪ねるために中座したので(小川さんと佐藤くんからとても面白い話を聴かせていただいた)、体験できたのは若林里枝、手塚夏子、武田力の3者のプレゼンのみだったけど、それぞれに視点が面白く、予定を1時間超えて熱いディスカッション、さらにはご飯を食べにいって終電まであれこれと話し込んだ。

 

手塚夏子が今考えていることは、わたしの師匠である栗原彬が「政治社会学」や「人間学」という領域で考えていることにかなり近い。この日のキーワードは、「共有と統一」、そして「拮抗」だったが、これは栗原彬ふうに言い替えると、効率追求や欲望装置としての近代社会のシステムの中から、生命系の共生システムを奪還する試み、というふうに捉えることができると思う。

 

手塚さんが「拮抗」という言葉にこだわっていたのは、(推測だが)震災後のこの世界の中で、彼らが(というのは彼女には小さな子供がいる)なんとかしてたくましく生き延びている、という実感があるからかもしれない。

 

とにかく20日にまたパワーアップ版をやるらしいので、そちらにも参加してみよう。