BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20140308 岩渕貞太『斑』、それから川崎へ

 

浅草で蛇骨湯に入って、少し散歩。そういえば浅草もそれなりに浅からぬ縁があったな、と思い出した。東京に出て来て最初の10年以上は荒川区に住んでいたこともあり、10代の日々にとってこの場所は特殊な意味を持っていた。

 

 

アサヒアートスクエアで、岩渕貞太『斑(ふ)』。今回は北川結、小暮香帆とのトリオ。先日岩渕さんも出演していた『RE/PLAY(DANCE.Edit)』の影響を感じたのは、こちらが勝手に連続性をもって観てしまうからだろうか? というのは、初動のしばらくの静かなポーズから、だんだんと動きが激しくなってダンスになっていく、という構造を読み取ったからだけど。雨音や、太鼓の音(?)などによってスイッチが入り、段階が引き上げられていくような気がした。と同時に、それまでバラバラに不干渉であった3人が、かなり際どい接近を繰り返していく。その中盤はすこぶる刺激的で静かな興奮を呼び起こすような状態になっていた。そこでは、パンフレットにあったような「自分という存在の境界」のほかに、「ダンスとは何か?」も問われているような気がした。

 

ただそれ以降の終盤に関しては、よくある「コンテンポラリー・ダンスっぽさ」の文脈に回収されてしまったのではないか。ダンスを観る時にしばしば思うのは「果たしてそんなにストイックになる必要があるのか?」ということで、わたしは「必要ない」と思っている。そのストイックさが、ダンサーたちの美意識の範疇を超えた何かをもたらしてくれるということは、これまでなかった。それはわたしにダンスの素養がないせいだろうか? あるいはわたしが舞台芸術(演劇やダンス)に期待しているものが、煎じ詰めれば、「観る者の価値観を揺さぶる」ことにあるからかもしれない。言い換えれば、なんらかの形で観る者を誘惑(もしくは挑発)するものに惹かれてしまう。もちろん、ある「美」が、観る者の心を意味もなく撃つということはあるだろう……たぶん。しかしそれは相当に圧倒的な「美」によってしかありえないのではないか。

 

とはいえ中盤の3者のやりとりは、単にそれが激しかったからという理由ではなく、ある種の静謐な(自己=他者の境界を溶かしうる)エロスを孕んでいるという意味できわめて興味深かった。誤解のないように言い添えると、いわゆる一般的な意味でエロティックだった、ということではない。そうではなくて、身体の関わり方のようなものが興奮をそそったということ。そしてそれは、音や周囲の環境との関係を模索してきた岩渕貞太のこれまでの試みの延長にあるとも思う。

 

 

 

それから川崎の工場地帯に流れて、ある仕事の前に夕陽を眺めて、再び銭湯でひとっ風呂浴びてから、時間つぶしのために喫茶店に入った。そこではドストエフスキーの『悪霊』のレビャートキンみたいな人物が、自分の身の上に起こった不幸(糖尿病)を嘆いていた。1分間に40回くらいの頻度で、彼は「糖尿病」という言葉を連発したかと思うと、今度は唐突に相手を泣き落としにかかるのだった。「俺だってつらいんだよ、わかってよ××ちゃん(ついさっきまで彼は相手のことを××××さんという正式名称で呼んでいた)。身寄りがないってのはつらいんだよ」。そして親戚の家に10キロの米を担いでいって、それでなんとか保証人になってもらったのだが、「あの女、米でつられやがって、そんなもんだよ!」と呪詛の言葉を吐き続けていた。

 

しかしわたしは笑えなかった。先日の柏の通り魔のことを思った。社会に対する怨嗟の声は確実に今の日本に一定数(もしかしたらかなりの数)眠っている。そしてそれが時々、暴力という形で吹き出すのだが、やむにやまれぬその最後の暴発も、あの定番の「心の闇」という言葉で片付けられていく。

 

自分は舞台芸術、特に演劇に、「暴力」を解除する力をたぶん期待している。そしてそれは可能だと思っている。

 

 

それからある仕事。2軒目で、自分でも驚きというほどの酔いつぶれ方をして、あとでテープを聞き返してみたのだが、あまりに恥ずかしく、あまりに愚かしく、しかしこちらについてはある意味可笑しくて、実際楽しかったし、笑ってしまった。笑うしかなかった。

 

 

 

 

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