BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20140302 マームと誰かさん 穂村弘さんとジプシー

 

憂鬱な気分で家でごろごろし、しかしこのままというわけにもいくまい……と思ってなんとか布団を出た。都市ソラリス展にも立教大学チェーホフにも間に合わなかった。心の中で「ごめんなさい」をつぶやく。生まれなかった「ごめんなさい」がそのまま死んでいくようにも思えた。自家中毒。人生の負債がぐっと増したような気がする。駅までの道すがら水たまりに足をつっこんで、足の裏がじっとり濡れるのを感じた。

 

原宿でじゃんがらラーメンを食べたけどニンニクは自重することに。このあと受付で「はい、ご予約承っております(ニンニクくさい。。。)」という心の吹き出しが浮かぶのはさすがに避けなければ。

 

まだ少し時間がある。近くにいるらしい人をドトールに呼び出す。相手が「最近よく眠れないんですよね……」と言うので、つい「それは家に問題あるのかもよ。枕変えるとか、引っ越すとか……?」などと迂闊にも口走ってしまい、ある芸能人をみずからに依存させたあの占い師の存在を思い出した。

 

原宿のドトールはちょっとだけオシャレで、壁面が鏡になっている。おそらく全世界で最も客層が若いドトールといっても過言ではないだろう。歳をとってすっかり薄汚れた、見たくもない自分の姿が鏡に映っている。醜いと思った。今日着てきた、青地に緑のボーダーのシャツもなんだか気に入らない。というかもう何もかも気に入らない。そんな幼稚な自己否定感情すらいやだ。ほとんど無意識で「服を間違えた……」とぽろっと洩らしたつぶやきは相手の耳に届いたはずだが、たぶん彼女はわざとそれを無視して「私、黒縁眼鏡の男について書こうと思ってるんですよ」と言った。「黒縁眼鏡の男ってちょっといけすかないですよね」

 

唐突すぎて、言ってる意味がわからない。しかし眼鏡をそっとはずして、そこに黒い縁がついているのを確認すると、冷や汗が出た。曇っていたのでシートで眼鏡を拭いたのだが、「その眼鏡拭き、ちゃんと洗ったほうがいいですよ。全然きれいになってない」と指摘され、もうダメだと思ったわたしは「時間だから」と告げて外に出た。まだ雨が降っている。傘を忘れたことに気づいて席に戻ると、彼女はもうすべてわかってますよという顔付きで、その安物のビニール傘を手にして待ち構えていた。どうせなら追いかけて届けてくれればいいのにと思った。

 

 

そんなことがあった後でVACANTで『マームと誰かさん・よにんめ 穂村弘さん(歌人)とジプシー』を観たので、「家でごろごろ」「引っ越し」「占い」「黒縁眼鏡」といった様々な符牒のシンクロニシティに驚いたわけである。いちばん衝撃的だったのは、わたしの真向かいくらいの客席に座っていた黒縁眼鏡の穂村さんが、青地に緑のボーダーのシャツを着ていたことに、途中で気づいた瞬間。

 

ドッペルゲンガーだ!

 

と思った。

 

いやそんなのはただ偶然、わたしが同じ服を着ていたにすぎないのだが、その瞬間以降、ここで描かれている「穂村さん」の世界がまったくの他人事に思えなくなったのは事実である。客席の誰かがこのシンクロニシティに気づくことがないようにと願っていた。そういえば風貌もなんとなく似ているし……。でもこの場ではどう考えてもわたしのほうが「偽物」にされてしまう。だってわたしは「穂村さん」ではないのだから、分が悪すぎる……。

 

とはいえ、こうしたシンクロニシティのすべてがただの個人的な偶然で片付けられるものとも思えなかった。というのはこの作品には様々な「手がかり」が散りばめられているからだ。おそらく観客が「穂村さん」に完全に感情移入することは難しいだろう(他人のラーメンのつゆに残っているネギを食べたいと言ってのける人がいったいどれだけいるだろうか?)。しかも一見一人称のようでありながら、ポリフォニックに青柳一家のエピソードなどが混入してくるから、一本の線としてストーリーに没入していくのは困難ではないかと思う。ただ、この舞台にバラ撒かれているもののどれかに観客は反応し、そこから何かに想いを馳せる——あるいは考える——という可能性は大いにあるのではないか。

 

劇構造も興味深い。最初、ただのだらしない文化系ひきこもりとして描かれる「穂村さん」を、青柳いづみが演じている。彼=彼女は誰に向けて喋っているのかよくわからないし、いったいそれが「穂村弘」なのか演じている女優「青柳いづみ」なのか作・演出の「藤田貴大」なのかもよくわからない。ところがある時点で青柳いづみが「私、青柳いづみは……」と自己主張をしはじめるあたりで緊張感が生まれ、渾然一体だったはずの語り手は、理想のイメージとして想像される「マーム(=美しい少女の虚像)」を切り離し、現実にある地域に根を張ってたくましく生きている「青柳一族の子孫・青柳いづみ」の姿を現していくことになる。

 

舞台上にはいない「穂村弘」は観客席でじっとその光景を見つめているばかりでなく、壁面に映し出される映像にも登場する。彼はとつとつと語り出す。みずからの引っ越しは、母親が占い師にそそのかされたからであることなど——

 

友だちが彼の家に遊びに来て、「この部屋、空気悪いよ」と言って窓を開けたシーンの衝撃は凄まじい。彼はそれまで「窓を開ける」というごく簡単な選択肢を思い付かなかったのである。その窓から、新しい世界が吹き込んでくる……! これはしかし、冒頭で描かれていた自堕落な「穂村さん」の姿とは異なり、歌人である「穂村弘」の宇宙を映し出していた。ばらまかれる手紙、そこに記された詩。破られるダンボールと、そこから溢れ出す発泡スチロール。そしてそこから花束が救い出される——埋もれていた、だがずっとそこにあった「靴下」と共に。

 

 

他にも興味深いことはあったのだが(間取り図に風呂が描かれてなかったこと、指人形など)、ともあれこの作品で重要に思えたのは、藤田貴大にとって他者である存在(穂村弘、青柳いづみ)の記憶とボキャブラリーが(おそらくは最大限のリスペクトと信頼関係をともなって)舞台上に導入されたことであり、この感覚は今後の彼の創作にも大きな(良い)影響をもたらすのではないかと感じた。

 

余談ながら、最後にもうひとつ(たぶんこれはこの日のわたしにしか感じようのない)驚きが待っていた。カーテンコールの拍手を受けたあと、青柳いづみがパチリとVACANTの電気のスイッチを入れると、観客席の穂村さんがゆらりと立ち上がった。そして、彼の着ていたシャツの(虚像ではない)本当の色が見えたのだ。それは青地に緑なんかではなく、黒地に青のボーダーだった。