BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20140127 断捨離、魔女狩り

 

やることが多すぎて詰まってしまう、という状況が今月は何回かある。それでも受けざるをえない(受けたい)仕事はあるし、会いたい人もいる。まあでも、去年までもスムーズだったわけではなくて、自転車操業でなんとかやりくりしてきただけのことであって、それでいいとは全然思わない。最近、「断捨離」という言葉がアタマの周囲を旋回している。断つ、捨てる、離れる……。

 

 

『明日、ママがいない』第1話を、どんなに極悪非道なドラマなのかと思って観てみたら全然そんなことはなく、むしろ(スケバン刑事とかホラーとかをパロディにしたような)ユーモラスでなかなかに見せるドラマであり、子供たちの演技も実際かなり素晴らしい。冷酷に見えながらもアンビバレンツな感情を秘めているらしい施設長のいるこの「施設」や、それに関わる幾つかの「家族」の諸相を通して、現代日本のオトナたちが生み出している様々な病巣と、それでもその世の中を生きていく子供たちの姿を、ただ個人として強くなって成長するというだけではなくて、お互いに関係をつくっていくところから探っていくドラマなのかな……と思ったのだが、確かにステレオタイプな表現も幾らかは含まれているとはいえ、このまぎれもない「フィクション」に対して世間のあの過剰な反応ぶりがあるのかと思うと暗澹たる気持ちになった。

 

「行間を読む」とかいうのはもはや死語なのだろう。脚本や演出の繊細な配慮も、表面的な描写に気を取られて頭に血の上ってしまった視聴者にはもはや届かない。現在の日本ではもはや、例えばトリュフォーの『大人は判ってくれない』なんかも、描写が虐待的であるというだけで放映禁止になりかねないと思う(まあそもそも地上波で名画が放映される機会は激減しているけど)。全8社のスポンサーが降りたというのも凄い話だけれども、別件の、缶チューハイのCM中止の件なども含めて、表現の自由はもはや風前の灯火になっていると思わざるをえない。「●●に抵触する」という名の下に、当たり障りのない毒気の抜かれた「美しい」きれいごとの表現ばかりにこの国が覆われてしまった時、その偽善王国で生まれてくる子供たちへの影響が「有害」ではないと果たして誰が言い切れるのだろうか? 結果として、この世の中に存在しているはずのことを、目に見えないように排除してはいないか。「臭いものに蓋をする」ことによって公害を垂れ流し、自然環境や周縁部の人間たちを破壊して経済成長してきたこの国の末路としてはふさわしいのかもしれないが、今この国に現にわたしも生きているので、できればまだギリギリ、自由を手にする方向に行けるものだと思いたい(もう無理ですか?)。現時点では日テレの社長は続行を明言しているけども、なんとか最後まで放映してほしい。

 

それにしてもこの不寛容の進行ぶりはいかがなものだろう。表面上の言葉尻に気をとられて、いわゆる「魔女狩り」をする人が増えているように感じる。考えてみてほしい。結局は「正しさ」の名の下に、石を投げてもいい魔女(スケープゴート)を探しているだけでは? そしてまた明日には、別の魔女を見つけることになる。何かを槍玉にあげる(クレームをつける)のはさほど難しくないのだから。明日はまたあちらの岸で火の手があがるというだけ。そして施設で暮らす子供たちのことなんてもう明日には忘れているだろう。

 

 

一方で今回の件に関して、「当事者」からの異議申し立ては、簡単に無視することのできない繊細な問題を孕んでいる。それがオトナによる微妙な「代弁」を含んでいるということについても……。今ここで、誰が正しいとか間違っているとかいうことは言いたくない。ただ願うのは、「傷ついた」あるいは「傷つくかもしれない」と恐れる子どもたちには、周囲の無理解だったり、眠っている差別だったりに対して、たくましく生きてほしいということ(おそらくはそれがこのドラマのメッセージではないかとも今のところは思う)。とはいえそんなに「強さ」にこだわる必要はなくて、いざという時のための逃げ足を鍛えておく、とかでもいいんだけど。逃げ足は大事。あるいは、逃げ込める場所(アジール)が。

 

仮に、ドラマやそれへの世間の狂騒によって何かを迫られているように感じたとしても、結論は急がなくていいと思う。何かに向き合うには然るべきタイミングというものが存在する。それは「今」じゃないかもしれない。世の中の流行と、自分のタイミングが合うとはかぎらない。ドラマが放映されたからといってその流れに乗ってやる必要もない。周囲がうるさければ耳を塞いでおけばいい。心のないことを言うやつがいればさもしいやつだと思って嗤ってやればいい。そのうち時機が来ると思うし、それを感じられるような状態に自分を保つことに専心したほうがはるかにいい。

 

「個性」とか言うくせに結果的には「周囲と同じ」であることをひたすら求められるこの国(同調圧力大国ニッポン)では、他人と少し違う背景や価値観を持っているだけでビハインドに感じられたり、無理解に苦しんだりすることにもなるけれど、まあ、ほとんどのことは気にしなくていいし、市場で売り買いされている安っぽいまがい物の「幸福」もその中に含まれる。それより例えば、産まれた時に「ポスト」ならぬ「キング・コング」と綽名をつけられたというこのサッカー選手の記事などを読めば、少しは気が楽になるのではないかしら。

 

http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/wfootball/2014/01/30/post_493/