BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20140114 塩を舐める、そして一生懸命の罠をかいくぐり、寛容と共生がもたらす未来の活力について

 

いつもの喫茶店に男の子がひとりで待っていて、しばらくすると恋人らしき女の子が遅れてやってきたのだが、たいへんな美少女で、まるでゴダールの初期作品で逃避行をしている男と女のように絵になっていた。彼女は「あなたに1000万円を差し上げます。つきましては……」と迷惑メールの文言を呪文のようにつぶやいて彼に聞かせていた。いい声だった。

 

そのあと温泉銭湯でごろっと横になりながら、とある依頼原稿のイメージを構想していたら、ふと、自分がもしも不測の事件や事故に巻き込まれて活動を続けられなくなったとしても、BricolaQはなんらかの思念や行為の集合体として続いてほしい、という気持ちが湧いてきたので、スタッフの落 雅季子嬢にそんなようなことを書いてメールしたら、てっきり「そんな悲しいこと言わないでください」とかなんとか言われるかと思いきや、「大丈夫。私のほうが長生きしますので」的な気丈な回答が即座に返ってきて、ああ、落さん、強くなったな、と思った。(いや、もともとそういう部分は彼女の中にあったのかも。)

 

 

自分は今、遺書を書くような気持ちでしかものを書きたくないのだと思う。もちろんそう簡単にくたばるつもりはないのだが、そんな縁起でもないことばかり考えているせいか、一昨日の日記を読んだ友人から「そんなことをしてはダメ。ひっぱられるよ。塩風呂に入りなさい」とメールが来て、無闇に心配をかけるのはよくないなと思いつつ、かといって死者を拒絶する態度もとりたくなかったので、塩を舐める、という折衷案をとった。しょっぱかった。

 

たぶん自分は死というものに近づくところからしか、信頼できる言葉を見つけられないのだと、今感じている。それでいて死に引きずり込まれないようにするには、強靱な精神力を必要とするのかもしれない。毎夜のようにAさんが夢に現れるのは、おそらくは彼がそうしたことをやり続けているアーティストであるということと、無縁ではない。素人が迂闊に手を出してはいけない領域なのだろう……。だけれどもやっぱり、この領域を無しにはできない。案外わたしは、合理的に思考するプラグマティストでもあるから(いや本当に)、基本的に迷信やスピリチュアルの類は信じていないし、それに、文章を書いているかぎりは大丈夫という奇妙な確信もある。一昨日の日記にも書いたように、批評には「呪」を「祝」に読み換えていく力があると感じているから。

 

 

 

さて、ここからが本題。昨日の夜、酔ってtwitterに連投してしまったことを、おとなげなかったなと思って後で反省したし、しかも当の学生さんからは丁寧な謝罪のメールまでいただいてしまい、もはや生き恥をさらすつもりで、当のツイートは消さずにそのまま置くことにした。若い将来ある学生さんの、飲みの席での冗談くらいのつもりだったかもしれない発言に、過剰とも思える反応をしてしまうわたしの懐の狭さを笑ってやってほしい。とはいえ、酒の席はお互い無礼講ということで、これからはいきたい。だからこちらも感じたことは言う。誰かに怒っているということでは全然ないけれど、わたしの中の「地雷」が作動してしまったというのは確かだった。

 

では、どうしてそれが「地雷」だったのか、いい機会なのできちんと書いておきたい。

 

 

▼1 町への愛が「よそもの」を排斥する  

これまでも何度か書いてきたけども(例えば下北沢について書いたこれとか、小豆島で感じたことについて書いたこれとか、北九州で滞在制作された『LAND→SCAPE』について書いたこれとか)、芸術やアートと呼ばれるものと町との関係は一筋縄ではいかないと思い知っている。多くの場合、芸術は「お高くとまっているもの」として、地域の生活者や商売人から揶揄されたり排斥されたりする傾向にある。「得体の知れない連中が勝手にうちらの町にやってきて何をやっているんだ」という声は、潜在的に一定数は眠っているものだし、時には表に噴出することもあるだろう。その地域にすでに根を張っているアーティストから「よそものが知った口を……」として糾弾されることも少なくない。

 

人間はどうしても動物でもあるから、縄張り争いみたいな感覚が出てくることもあるし、土地や町というのは帰属意識(アイデンティティ)の対象として強烈な存在感をもっているから、自分のほうがその土地に長年住んでいる(あるいはそこに生まれている)からそこは「私たち」のものだ、と主張することでプライオリティを保ちたい気持ちも分からなくはない。わたし自身、下北沢の近くに住んで毎晩のように飲み歩いてた(お金はなかったのでよく奢ってもらっていた)頃は、「シモキタ」というある特殊な知名度を持った町について、あの複雑な町の構造を路地裏に至るまで熟知し、どこの通りにどの店があり、どんな人がいて、そしてどんな噂が流れているのかまで知っているということに、プライドのようなものを幾らかは感じていたと思う。

 

そうした感情のすべてを否定することはできない。なぜならそれは愛の現われでもあるのだから。けれども、誰か特定の人間への愛というものが、時として占有願望や束縛や嫉妬と紙一重であるように、特定の町への愛もまた、それが自分のものであるという主張と共に、様々な他者を「よそもの」として排斥する危険性を孕んでいる。

 

 

▼2 忠誠と依存 幸福な蜜月関係? 伝家の宝刀への危険な過信

排斥を逃れてその町に溶け込むために「よそもの」がとりうる手っ取り早い方法は、忠誠を誓い、貢献的な態度を示すことによって、その町の人々に「敵ではない」と思わせることである。どんな町にも何らかの政治的力学が働いており、大抵は何人かのボス格の有力者がいるので、特にその人に気に入られていれば、ひとまずは町の中での居場所と安全は(そして時には日々暮らしていくための生活費や環境まで)確保されることになる。これは一見、幸福な蜜月関係にも思える。ところがこの場合、そのボスに対して不断の忠誠を誓わなければならないという依存関係に陥ることがしばしばあり、そこで「町にいることを認めてやっている」その有力な庇護者が嫉妬深かったり猜疑心が強かったりする場合、ちょっと忙しくてしばらく御機嫌伺いを怠ったというだけでも「裏切り者」のレッテルを貼られることになる。……そうした忠誠と依存をめぐる話についても少し前の日記に書いた。

 

わたしは今、どこか遠い架空の国のメルヘンチックなおとぎ話を書いているのではなくて、実際に去年、とある町で、とあるアーティストの身に起こった現実的な悲劇について書いている。結果的にその排斥は、芸術界にとって大きな損失をもたらしたのみならず、その町の利益や未来を決定的に損なったかもしれないとも思うのだが、どうだろうか?(まだ間に合うという気持ちもなくはないのだが……)

 

ともあれ、どこの町でも「同化」や「貢献」や「忠誠」が求められるものだし、そこで町の有力者に「そぐわない」「ふさわしくない」「裏切った」などと判断されれば、排斥の声が高まったり、根も葉もない噂が出回ったりして、「出ていけ」という話になったりもする。

 

芸術と町とのあいだには、つねにそのような「排斥」にまつわる緊張関係がある。基本的には「町の人間」を自任する人々のほうが優位な立場に立つことになる。なぜならそこには「時間的な積み重ね」という、伝家の宝刀があるのだから。この宝刀の保持者にとっては、たとえそれがどんなに錆び付いていようとも、それが絶対である。ちょっとやってきただけの「よそもの」なんて、この宝刀の前にはただの猪口才な小者に見えてしまうことだろう。けれどもその宝刀が実はもう腐っていて、それを振りかざすかぎりは未来がない、というような事態も、この日本という斜陽の国ではすでにかなり進行している……。

 

 

▼3 観察者=ストレンジャーとして現場に立ち合うこと

わたしは批評や紹介文を書く者として、そういった町とアーティストとが遭遇するような現場に、不思議な立ち位置でしばしば関わってきた。いわゆる「アーティスト」そのものではないし、「町の人間」でもない。ただ実際にその現場に足を運んで、そこで起きていることを観察し、時には両者と酒を飲んだりしながら話をしたりもして、良きタイミングが訪れれば、そこで起きた「できごと」をどこかの媒体に書くことになる。書かないことだってある。

 

もちろんわたし自身もまた「よそもの」として町から排斥される対象になりうるのだが、アーティストのような直接的な摩擦に直面することは少ないし、そもそも最初から誰がどう見ても「よそもの」なのであって、基本的には帰属意識というものを持たない(というところにアイデンティティがある)ので、通りすがりの観察者=ストレンジャーとしてそうした現場に立ち合うことになる。あえて「通りすがり」を自認する以上、「無責任」と見られる危険性といつも隣り合わせだが、ストレンジャーの立場だからこそ見えたり伝えたりできるものもあると経験的に知っているし、実際に役にも立つという自負はあるし、この世界の運行にとってそうした存在は必要な「のりしろ」だとも思っているから、同化はできないし、なかなか理解もされないだろう、というある種の諦観を抱きつつもこの第三者的な立場を引き受けることになる。たぶんそういうデラシネ感覚が性格的に向いているというのもあるのだろう。おそらくは12歳で高知から東京に単身渡って一人暮らしを始めた時に、東京の人間からは「田舎者」扱いされ、高知の人間からは「東京に行ってしまった人」として扱われ、どちらにも帰属することを許されなくなってしまい、さらには親兄弟とのあいだにも決定的に解り合えない溝が生じてしまった時から、もうそれは宿命付けられてしまったのかもしれない(18歳まで田舎にいてから満を持して上京するのとも、最初から東京に住んでいるのとも、アイデンティティの形成の仕方が異なるのだと思う……暗黒の10代だった)。

 

まあ、そうした個人的な事情はひとまずは置くとしても(別に恨み節を言いたいわけではないのだ)、あらゆる批評家やジャーナリストは、きっとこうした種類の諦観をそれぞれに抱えているはずだ。その町への帰属意識を持たないがゆえに、だからこそ自分の「言葉」にその存在意義を賭けることになる。語る対象にどんなに近づいたとしても、それと同化することは決してできない。観察者としての最後の一線は必ず残る。残ってしまう。そこに矜持があるとも言える。

 

あるいはアーティストであっても、特に多くの場合、個人で活動している小説家や写真家には、これに近いストレンジャー的な諦観があるのかもしれない。どんなに被写体に近づいたとしても、「書く」や「撮る」という行為を通して、その対象から引き剥がされてしまうことになるのだから。

 

 

▼4 寛容さと共生が生み出す未来の活力

とにかく、そういうある意味では「無責任な外野」とも言えるストレンジャー的な観察者の立場から見て、ある特定の町に根を下ろしている人たちにシンプルに願うことは、いたずらに「よそもの」の排斥に向かう前に、まずは寛容な包容力を持って様々な事象を見つめてほしいということだ。

 

「私たち」に対して目に見える貢献をすぐさましてくれないからといって、そう簡単に見切らないでほしい。「私たち」に対して愛想笑いを浮かべないからといって、その人物が冷淡なやつだなどと判断しないでほしい。「私たち」の前にしばらく顔を出さないからといって、あいつは裏切ったなどと思わないでほしい。もしかすると「私たち」にとって害毒のように見える時でも、長期的に見て町の未来に何がもたらされるのか、一度立ち止まってよくよく見つめて想像してほしい。

 

そう、未来を想像してほしい。

 

寛容さの中から生まれてくる多様性というものが、結果的にその町に粘り強い活力をもたらしていくということを、わたしは何度も、何度でも、伝えていきたい。「私たち」の作法やしきたりからはみ出た「よそもの」は得体が知れないし気に食わないかもしれないが、多様な存在が共生できる場所にこそ、未来への活力が生まれるのだと思う。逆に多様性が失われて遺伝子のバリエーションが乏しくなっていくと、その種は痩せ細り、やがては滅びるだろう。わたしは、寛容さにもとづく共生の可能性を探っていくためにも、目に見えにくかったり数字では表せないような「できごと」を記述して、伝えていきたいと思っている。

 

 

▼5 目に見える「一生懸命」の罠

……というような考え方がベースにあって、では、くだんの学生さんのなにげない「あんまり働いてなかったですよね?」的な冗談チックな発言(繰り返すけれどもその人が悪いわけではなくて、とても将来有望な素晴らしい人だと思う)がどうしてわたしの「地雷」を踏んだかといえば、その発言が「目に見える形での貢献」に寄りすぎているように感じられたからだった。

 

どんな組織でも、貢献度合いの高い人物が評価されるものだが、その時、査定方法(尺度)は本来は幾つかあるはずなのに、得てして「目に見える形での貢献」ばかりが評価されてしまうことがある。要するに見る目がないということなのだが、その結果として何が起きるかというと、「私は仕事してますよ」と他人やボスに見せつけるような行為が目立ち、「一生懸命さ」のようなものが過大に要請されることにも繋がっていく。

 

もちろん、目に見える形での貢献や、はっきりと数字で結果を残すということも重要で、軽視してはいけないのだが、実際に現場では目に見えにくいことも含めて様々な「できごと」が発生しているのもまた事実だし、それは昨日のイベントについて日記に書いた通りでもある。そもそも「縁の下の力持ち」は目に見えるとはかぎらない。場合によっては一見「何も仕事をしていない」かのように見える人物が、その場にいる人々の「のりしろ」となって絶妙なバランスをキープしたり、思いもよらないコミュニケーションを生み出していることだってままあるのだ(わたしが今、念頭に置いているのは、地域作業所カプカプにおける星子さんのことだ。彼女は体調の良い日に作業所におんぶされてやってきて座敷に寝そべっている)。それに人間にはいろんなタイプがあって、何かに対して向いている時とそうでない時があり、さらには同席する人との相性や時間帯によってもその発揮できる能力が変化したりもする。潮の満ち引きみたいなものである。それが読めないと、とにかくただ全力で「一生懸命」をアピールするしかなくなるのだが、そこには他人に対して「一生懸命な私を見てほしい」という自己顕示欲や周囲の同調圧力に乗り遅れまいとする気持ちはあっても、本当に目の前の他者(例えばイベントの来場者)とのあいだに関係性を生み出そうとしているのかどうか、あらためて考え直してみる必要はあるだろうと思う。

 

大局を見ていないと目の前の「貢献」ばかりに目がいって、結果としてそもそも何がやりたかったのか、最初のモチベーションを見失うこともある。「一生懸命頑張っている」雰囲気を出している人が評価されるとして、でも、そもそもどうしてその人は「一生懸命頑張って」いたのだろうか? なんのために? そもそもどうしてイベントをするのだろうか? やっぱり他人に何かを届けたいとか、他人と何かを交わし合いたいと思うからこそ、それをするのではないかしら。

 

戦時下を考えてみるとこれは恐ろしい事態になる。太平洋戦争時、日本国民は、競って「自分こそが頑張っている」とアピールし合ったのではないか。そして、その流れに乗れない(乗りたくない)人物を、「非国民」として誹り、糾弾し、密告したのではないか。しかもそれらのほとんどは、悪気なく行われたのであろうと思う。彼らはたぶん、心から「一生懸命」だったのである。だから無謀と知りつつも「神風」として特攻し玉砕戦術をとった。それが「頑張っている者がエラい」という同調圧力の究極の最終形だったのだから。

 

 

▼6 寛容、鷹揚でちょっといい加減なくらいの存在

今のヨコトリのサポーター組織がかなりいい感じになってきているのは、リーダー的な立場としてメンバーを引っ張っている久地岡さんや満岡さんが寛容なのも大きいと思うし、彼らのあの「寛容さ」というか「オトナ力(りょく)」のようなものは、過去の(おそらくは苦いものを含んだ)経験から培われた部分もたぶんあるのだろう。人には様々な事情があるから、少ししか関われない、という人もいるし、それでもアリですよという形にしていくためには、どうしても寛容さは不可欠になる。もっとも、あるいは単に性格的に彼らが鷹揚というだけのことかもしれないけども……(その可能性も十二分に考えられる)。しかし適度に「いい加減」であるということがいかに貴重なものであるかは、いろんな現場を渡り歩いてみるとよく分かる。なかなか、ああいう良い意味でのテキトーさを発しつつ締めるところは締めるという人物はいない(なんとなくあんまりここで褒め称えたくもないですけどね!)。

 

とにかく「寛容さ」は組織でも町でも大事な要素だし、だからこそ多様なものが共生することができて、そこから未来の活力が生み出されていく。少なくとも、自分が思い描く「一生懸命」という尺度だけがすべてではないかもしれない、という感覚は必要だと思う。

 

 

▼7 史上最悪とも言える排斥のこと

ともすれば盲目的に信じがちな「正しさ」をいったん括弧に入れないと危ないこともある。わたしはよく浅間山荘事件のことを思うのだが、「寛容さ」が失われていった究極には、人間はいつでもあの状態に陥るのだと肝に銘じている。他人にケチをつけるのは簡単だし、他人を排斥するための理屈なんて、ちょっとアタマが良くて弁が立ちさえすればいくらでも捻出できるということ、さらには人間の「他人を排斥したい」と欲してしまう性質がいかに根深いものであるかということを、あの事件は証明している。

 

 

 

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