BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20140112 呪いを解くことについて

 

都内に演劇を観に行くならこの日、と思っていたのだが、どうにも身体が動かないので家に籠もることにした。今年に入ってから未だに「現代演劇」のカテゴリーに収まりそうなものはまだ1本も観ていない。

 

昨年のF/Tアワードの結果を見ても思うのだが、「日本の現代演劇」が果たしてどのような言説・文脈によって「出口」を見出せるかが分からないことには、いくら個別の観劇体験を重ねたところでどうにもならない、という気持ちが増してきている。作り手の問題ではなくて、批評言語が開拓されないことには「出口」はないと感じる。

 

それに『演劇最強論』でまとめたとはいえ、ここ数年の濃密な観劇体験に対して、自分なりに納得いくまで反芻する必要も感じている。観たもの、あるいは観られなかったけれども確かに起きたはずのそれらの演劇について、このまま通り過ぎて新しい記憶を上塗りすることで消してしまうということは、今のわたしの状態にはそぐわない気がするのだった。

 

 

このところ夢にAさんが毎夜のように出て来るのだが、夢の中の彼は寡黙で、ほとんど何も語らない。もちろんそれは現実のAさんではなくて、わたしの中で勝手にイメージされているAさんにすぎないのだが、夢の中の彼はつねにわたしを見つめているというわけでもない。彼はどこも見ていない…………そこには視線というものがない。ただはっきりと存在してはいて、その存在や影がどうも最近のわたしにとってとても重要であるらしい。何かの警鐘なのかもしれない。彼に見られている以上(いや実際には彼は「見てない」のだが)、それに対して恥ずかしいことはできないという気持ちも少しあって、そういう意味では夢の中のAさんはわたしにとってある倫理的な指標になっている。(ご本人には何の関係もないのだけれど。)

 

これだけ夢の気配が濃厚なのは、去年の4月に怪我をして動けなかった時にも近くて、どうやら今はあの頃の状態に近づいているのだと思う。あの時もAさんは夢の中に出てきてピアノを弾いていたのを覚えている(やはり彼は何も見ていなかった)。

 

夢の中でなんらかのパフォーマンスに接するという機会も最近は増えている。Aさんと『かくれていない』という作品をつくっていたらしい話は前にも書いたが、他にも例えば、東京デスロックの夏目慎也さんとなぜかピアノの競演をしているという謎の夜もあって、夏目さんが出てくるだけでギャグになってしまうこの感じは凄いと思うのだが、実際にはわたしもピアノが弾けないしたぶん夏目さんだって弾けないのではないか(知らないけど)。あとライブハウスに行くと大谷能生がギターとアコーディオンが合体したような不思議な木製の楽器で演奏していて、ちょっと信じられないくらいにかっこよかったのだが、彼の右の掌は巨大化していてそれが客席をゆっくりと浸食していくという恐ろしい夢だった。

 

 

ゆうべはblanClassからおばけトンネルを通って帰ってきた。幽霊はいざ知らずふつうに悪漢とかが潜んでいたら怖いなと思うような暗がりの中を帰ってきたので、肝を潰した。以前も夜中に墓場に行ったりだとか、時々そうやって肝試しのようなことをしてしまうのは何なのだろうか。

 

 

その前の晩に寝付けなくて、去年死んだ友人のことがまたもや思い出されてきた。きちんと供養してあげたい。だけどお墓のありかも知らないし、それを調べるという行為も怖くてできない。それが彼女の死とそれにまつわる様々な人々の思惑を曝くようになりかねないのが怖いのだと思う。悶々としながら、彼女からの飲みのお誘いを断ってしまったことなどを思い返して、懺悔するような気持ちで、素直に思うことを書いて、絵文字の花を添えて、彼女にメールをしてみた。当然ながら「送信されたメッセージはお届けできません」と返ってきて、実は、もしかしたら彼女は生きていて、わたしは噂に騙されていて「は? なに言ってんの? バカじゃないの。まあとりあえずのもーよ」みたいなセリフが返ってきはしないかとひそかに期待している自分にも驚いたが、結局そんな奇蹟は起こることはなく、これでほんとにさよならだと思ったので、「さようなら。」と書いてもう一度メールしたが、やはり返ってきた返事は同じく機械的な自動返信のメッセージだった。

 

さらに正直に言えば、彼女が化けて出てはこないだろうか、と期待したところもあった。たとえ幽霊という形であれそれで何かしらのやりとりが生まれるのならそれもいいかなと思ってしまった。だけど暗がりに目を凝らしてもそうした何かは見えてこなかったし、その気配もなかった。おばけトンネルとひと気のない公園を夜中に通ったのも、そういう気分が反映されていたのかもしれない。

 

木ノ下歌舞伎の『黒塚』を観たのは彼女の死を知った直後で、彼女に捧げるような気持ちでわたしはあの芝居を観ていた。もしかすると、作品を死者に捧げるという気持ちがあるように、観客の側にも、観る作品を死者に捧げることができるのではないか、という願いがあった。

 

批評を書くという行為も煎じ詰めれば鎮魂であり供養ではないかと思うところがある。(中野成樹『四家の怪談』のように)「呪」を「祝」に変えることが本当にできるのではないか。ある人間の中の「愛」や「憎しみ」や「孤独」といった感情は、それらの言葉を与えられるからこそそこに閉じ込められているということもあり、そうした何らかの怨念=オブセッションを、ひらいたり綴じ直したりして別の可能性を探っていくこともきっと批評にはできると思う。

 

 

 

 

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