BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20140110 F/T公募プログラム終了についてひとまず思うこと

 

いつもの喫茶店に、新年初めて顔を出してご挨拶。やっぱり落ち着くし、仕事もはかどる。そのあとは温泉銭湯という黄金パターンに。少しずつリズムを。

 

 

F/T公募プログラムの終了が発表された。すでに予感していたことでもあり、思ったほどには落胆していない。ただ結果的にこの4年間のすべての作品を観てきた者として(それはやっぱりこのプログラムに何かしら期待していたということだ)、自分なりにこの公募Pで試みられたものを受け止めて、どこかに繋げていく必要を感じてはいる。

 

ラムちゃんの姿がもう見られないのは寂しい。せめて最後はラムちゃん自身の言葉で締めくくってほしかったもふ ઉ´◉ω◉`ઈ))

http://www.festival-tokyo.jp/news/2014/01/ft-eap-140110.html

 

公募Pが終わったことそのものよりも、次のフェスティバルの方針が未だ見えないがゆえに、これまでの理念が受け継がれていくのか、それともまったく別の新しいものになるのか、全然語られないことによる寂寞としたこの感じに虚脱感を覚えてはいる。とはいえいずれは(当然)何らかの発表が為されることだろう。今のところ「次年度より、ディレクター交代に伴い、アジアおよび若手育成に関する新たなプログラムを実施する予定です」とあるので、こうした試みが完全に消えるわけではないのだろうけども、現状ではすっかり「失語」したかに見えるこのフェスティバルの今後に、理念の部分は果たしてどのように継承されていくのだろうか。

 

 

「若手育成」に関しては、ほんとに、きちんと若い才能を尊重し、育て、時には守ることのできる人がディレクションに入ってほしいと切に願う。人を育てるのは本当に大変なことだし、若い作り手は総じてナイーブではある。もちろんなかなかにタフな部分もあるので過保護である必要はない。だがサポートは必要だ。そしてある種の繊細さは、その作家の創作活動における大事な「核」と隣り合わせでもあると思う。かつてのような「劇場すごろく」神話が成り立ちづらくなった結果、劇場のサイズに合わせた演出力の不足、といった問題も依然としてなんら解決されずに残っている。すでにそうした「大劇場へ」の方向は目指さず、別の形で活路をひらこうとしている者たちもいる。ひとくちに「若手」といっても、作家としての欲望は様々であることを知っていてほしい。とりあえず、「人気の出てきた劇団をつまみ喰い的にピックアップしてればOK、大舞台に出られて本望でしょ?、残るやつは残るし消えるやつは消えるんだよ」みたいな安易な考え方だけはしないでほしい。

 

あんまり若い人たちをナメすぎないでほしい。確かに若い世代は歴史認識も甘いし、ヨーロッパの作家たちのように政治的な問題を扱うことには慣れていないかもしれない(そこには大きな問題があるとわたしも思う)が、やはり若さゆえの切迫感や同時代的な空気への鋭い感性はあり、それが本当に単に現代日本のガラパゴス的な(他の国では通じないこの島国だけの)問題として片付けていいものかどうかは、少なくとも立ち止まって敬意を持ってよく見つめてほしいとは思う。わたしが『演劇最強論』の「ダークサイド演劇論」で書きたかったのもそういうことだ。この、そもそも「歴史」を剥奪されている「悪い場所」の「語れなさ」をどのように突破していくのか。彼らはそのこととそれぞれの闘いを繰り広げてきた。

 

例えば(もう「若手」の枠には入らないとは思うが)多田淳之介と東京デスロックが先日韓国の東亜演劇賞で三冠を獲ったことは、日本では(現時点では)ほとんどまともに報道されていない。あの作品はその創作過程や内容など、どこをどう考えても「ガラパゴス」ではなかったし、韓国での受賞という結果も島宇宙を完全に突破しているわけだが、いったいどの批評家がそれを語り、いったいどのメディアがそれを重要な事件として報じたのだろうか? 「観てないから」ということで無関心でいいのか。これは要するに、作家の問題ではなくて、言説をつくる側の怠惰の問題ではないのか。劇評やメディアのほうが老朽化していて、今の若い感性とその行動についていけていないのではないか?

 

 

さてもうひとつの問題は「アジア」で、これに関してはどうなるか見当も付かないけども、少なくともここまで培ってきた、アジアにおける共通言語を探ろうとするプラットフォームが無くなってしまうのは痛手だとは思う。2012年にわたしが聞き手を務めたCINRA.NETでのインタビューで、2013年度までのF/Tディレクターである相馬千秋は次のように語っていた。

 

―若いアーティストたちが飛躍していく場として位置づけられた「『F/T』公募プログラム」も、昨年からアジアへと門戸が開放されました。一方で相馬さん自身も、特に最近は「東アジア」という枠組みを視野に入れて発言されていますよね?

 

相馬:そもそも今の舞台芸術の中心、つまりルールと制度とお金のイニシアティブはヨーロッパにある。それに対して私たちはアジアの端っこで勝手にガラパゴス的に自生してきたんだなということを『F/T』を何回かやっていくうちに改めて実感しました。私はそのガラパゴス的な豊かさをとても肯定しているし、だからこそユニークでローカルなものがヨーロッパでも高く評価されてきているのだと思います。でも、そのヨーロッパに作品を供給することで評価されるという現状に甘んじるのは、文化帝国主義を無批判に受け入れるようなもの。もっとこの東京、日本、アジアという、自分たちの足元から生まれてくる豊かなものを、自分たちの文脈の中で、自分たちのイニシアティブや意思によって同時代的に共有していかなくてはと。その時に、「自分たち」というのが東京や日本だけで完結するのではなく、アジア、特に東アジアという文化圏で共有していくことが、今後特に重要なのではないかと。これから時間をかけて、アジア独自のプラットフォームを作るのが私の次の大きな目標です。公募プログラムに「『F/T』アワード」というコンペを作ったのも、賞を決める過程の議論をアジア圏内で共有することで、アジアの演劇シーンの共通言語を構築していこうと考えたからです。私たちは今あまりにも批評の面で交換をしなさすぎているから。

 

「アジアの演劇シーンの共通言語を構築していこう」というこの試みは、ここで頓挫してしまうのだろうか? 若い劇評書きによる落雅季子×山崎健太対談のように(こなれてなくて、けっして読みやすいとは言えないが)、ようやく公募プログラムについてなんらかの言説化を試みようとする人々が現れ始めたというこの矢先での打ち切りは、やっぱり残念ではあり、とはいえ「残念」とばかり言っていても仕方がないので、わたしなりにこの公募プログラムの4年間を振り返る作業をあらためてしたいとは思っている。まだ、こないだのF/Tアワードについてもきちんと受け止めて言語化できていないのだし。