BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20140106 フェティシズムと収奪について

 

典型的な風邪のために動けないので、最低限のことだけをして横になり窓の外を見ていた。いい天気だった。注意深く耳を澄ましていると鳥の声。近隣の人が水を使う音。バイク。そして救急車のサイレン。

 

 

どうもわたしは人間の声、文体、ボキャブラリーにフェティッシュな感覚を持っていて、それらは絵画や音楽にも匹敵するような豊かさを持っているように感じている。去年の暮れから「モノマネ師に転職したい」とか親しい人たちと会って話す時に言ってフザケていたけども、10パーセント程度には本気の心はあった。というのも、モノマネ師であれば、公然と他人の声をサンプリングして表現できるのだから。

 

一方でそうしたフェティシズムは、他人を何らかの「リソース」として捉えて収奪しようとしているのでは?、という疑念もあるのだった。恋愛もそうで、結局は他人の「いいとこどり」をしているにすぎないのではないか? 年末に見たNHKのドキュメンタリーで、病に倒れた妻を介護しながら「良い時もあれば悪い時もある、それが夫婦、あんたにもそのうちわかる」と言っていた夫の言葉を思い出す。わたしにはそんなふうに誰かと添い遂げられるという自信がなかった。

 

芸術作品にはまだ救いがあって、例えば映画や演劇なら「観る」ことで、詩や小説なら「読む」ことで、その収奪を許されているとも考えられるけども、近頃はそれもどうなのかと疑問に思っている。ともすればただの「確認」や「消費」や「通過」に堕してしまっていて、そういう作業を続けたところできっとこの先良いことは訪れないだろう。

 

 

届いた一枚の年賀状に心を打たれた。こうして手紙をもらえるということは、互いに収奪し合うような関係ではなくてせめてもの何かを交わし合えていた、あるいはもしかしたら今も何かを交わし合えている、ということの証しではあるのだろうか。いや、交換ということでもなくて……。今は降り積もっていく「時間」しか信用することができなくてそれもどうなのかと思う。

 

湯たんぽが欲しい。