BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131228 『MOTHER II』、ポナイト2

 

アトリエ春風舎にて、青年団若手自主企画vol.59 大池企画『MOTHER II』。劇場で演劇を観るのはひさしぶり。母と娘、おじさんと若者、といった世代間の対立がテーマになっていて、ある朝起きたら母親が27歳に若返っていた、というファンタジックな設定から物語がはじまる。しかしここにある対立や葛藤は、クリシェの域は抜け出ていなかったようにも思う。いっそのこともっとファンタジーに振り切って想像力やイメージを羽ばたかせてもよかったかも。人間の感情が舞台の上に重なったり沈んだりしていくような時間があまりなかったように思う。あるいはもっと笑いの力を使うとか、スピード感に緩急をつけてグルーヴを生んでいくとか、何かしらもうひと仕掛けないと突破できないような。

 

基本的に、青年団の現代口語演劇の手法を踏襲というか模倣しているのだけれども、青年団流の相槌の返し方とかにしても、もっと様式美的な扱いにするとかしないと、中途半端感が否めない。自然主義リアリズム(ナチュラリズム)ということをどうやって引き受けていくかというのが、次の世代には求められてくるのではないかと思う。つまり、よりリアルに自然な演技をしていく、ということの探求はすでにこの10年でだいぶ為されたので、そこから今度はいかなるスタイルを見出していくのか。例えば「祖先」である平田オリザ小津安二郎などのある種の映画的な間(ま)を意識していたのではないかと思うけれども、ただ単にそのやり方を見た目の上で模倣しても、オリザさんにインストールされていたはずの沈黙の美学(あるいは間(ま)の美学と言い換えてもいい)までは大池容子はまだ取り込めていないように感じる。


平田オリザの薫陶を受けて伸びていった劇作家・演出家に共通しているのは、なんらかの形でそのやり方を批判的に継承しているという点だと思う。批判的に、というところが大事で、そのための発明や技術的強度、さらにいえば「語りたいこと」もっといえば「語らざるをえないこと」を手に入れた人たちがみずからのスタイルを確立することができる。平田オリザの凄いところはそうやって「倒される父」を演じられて、しかも、何度も何度も倒されながら生き延びているということだ。むしろ倒されることでさらに生き生きしていくようにも見える。だから息子や娘は心置きなく父を倒せばいいのだが(それこそが親孝行なのだ)、息子たちに比べると総じてオリザさんの娘たちは父が好きすぎるのか、心優しいからなのか、なかなか父を倒せない傾向にあると思う。少しくらい不良でも偉大な父は大目に見てくれると思うのだが(今、謎の家出?をした渡辺美帆子のことを思い出した)。


人がハケていく時の感触も軽い。ラスト、幼い娘(の幻影?)が入ってきた時、母親は果たして水を取るために奥に行く必要があったのだろうか。人間が新たにあの空間に登場したことによって生まれたせっかくの緊張感が消滅してしまうように思えた。

 

あと細かい話だけども、「ある朝起きたら27歳になっていた」というのは実はありえない記述。「ある朝起きたら27歳くらいになっていた」なら分かるけども。

 

 

 

 

そのあとエクスポナイト2日目に移動。昨日の続きとしてここではライブとパフォーマンスについて書く。初日は物販コーナーの寒さにやられて木下美紗都と象さんズや灰野敬二をきちんと聴けなかったのが心残り。

 

A-Musik featuring 大谷能生はこれまでのポナイトのラインナップから考えるとかなり異色にも感じたけども、こうやって何かが継承されていくのだということに感動を禁じ得なかった(おそらく能生さんがあのステージの上でいちばんそれを感じていたのではないか)。

 

SjQ++。やっぱ凄くかっこいい。音を出すとその奏者に光があたるセッションが特に素晴らしい。ドラムのアサダワタルくんはめちゃめちゃかっこいいけどこれと文筆家としての仕事を両立していることを考えるとますます奇跡的な存在に感じられる。

 

空間現代はいよいよノッている。

 

蓮沼執太(SOLO SET)はびっくり、の実験的な試み。山と積まれたスピーカーや、ガラス瓶に詰められたビーズのようなものがサラサラとなる器械など、もはや「舞台美術」と呼んでいいしつらえ。穏やかな並木道の風景や、コンテナを映した映像などをバックに、不思議な音楽が流れていく時間。何かいろいろなことがここから起きていきそうな感じ。

 

daitengによる逆回し再生DJも面白かった。空間現代は逆回ししてもほとんど同じに聞こえるという……。

 

パフォーマンスでは、まずオープニングを飾った東葛スポーツ『崖っぷちの女』。映画『崖っぷちの男』を下敷きにして、例によって談志やビートたけしらがサンプリングされて、ついでにポナイトの出演者たちにもいちいち言及されていくという趣向。やはり愛すべきオモシロイ存在だと思うけども、今回は、どうしてもハイコンテクストにならざるをえない演劇ネタは要らなかったようにも思った。それがなくても十二分に彼らの魅力は伝えられるはずだから。あ、『演劇最強論』もきっちりディスって(?)いただいてありがとうございます。嬉しいです。

 

そして最も衝撃を受けたのは飴屋法水吉増剛造だった。なんというか、子守歌を聴きながら集団自殺を図っているような感じというか……。飴屋さんがなんども螺旋階段を転がり落ちていく。やがて吉増さんと合流すると、バイクのアクセルを踏んで轟音をふかすのだが、配管が熱で溶けてしまい、排気ガスが噴出するというトラブル。そのあと飴屋さんは再び外に出て、志賀理江子の写真を燃やす。その火を箱に燃え移らせて、それを被る……。渋谷のラブホテル街をバックに、顔面が燃える男が立っている……。

 

飴屋さんはしばしば自分の身を危険に晒したり痛めつけたりするパフォーマンスをする。簡単ではないことだけれども、とはいえその「負荷」が人の心を打つのは確かであるだろう。しかしこの夜に起きていたことを単にそのような「危険→感動」というラインだけで捉えることはできない気がする。いったいそれをどのように言葉にすればいいのか。思い返してみる。あの時、ラブホ街をバックに佇む顔の燃える男の映像を観ていた時に、わたしの心に去来したのは、ほとんど完璧な虚無のようなものであり、芸術に関して何ごとかを語ろうとしてしまうわたしの口を失語に追い込みかねないものだった。芸術、というものはある様式の中でアップデートされたり作品としてブラッシュアップされたりそれによって評価を得たり社会的有用性を認められたりしていくのだし、そして批評はそうした在り方に引きずられていくのだが、実は、ほんとは芸術や批評の言葉というのはそんなこととはまったく無縁なのではないか、と思わされた。この感覚は、今年で言うと、柴田聡子の『たのもしいむすめ』を観た時に感じたことにも近しいように思う。

 

最後は吉増さんが観客たちに語りかけている姿がとてもキュートだった。「いい時間だったなあ。法水という天才と過ごせてよかった。(両手に持っていた道具を指して)やっぱり真珠をつくる真珠貝のように手作りしないとね。子供が遊ばなくなったから我々が真剣に遊ばなくてはね」などと言っているのを聞いて、じーんと来た。それで外に出たら、くるみちゃん(飴屋さんの子)たちが遊んでいて、つまりリアルな子供は遊んでいるわけた。ではいったい誰が真剣に遊んでいないのか? じっと手を見る。

 

 

終演後は、しばらくネストで佐々木さんやノムーたちと話をして、河岸を変えて不夜嬢と朝まで飲む。アバズレと言われた直後にこれだからもうどうしようもないサガなのかもしれない。おそらくは空間現代のセカンドアルバムを聴いていたせいで豪快に電車を乗り過ごしたりして、家に帰ったのは9時半を過ぎていた。まあ年末だからということで。来年はもっと落ち着いて仕事をします。