BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131220 炎上か、冷笑か

 

寒さが本格的になってきた。調子は今ひとつだし、この日記もおそらくは今ひとつということになるだろう。とにかく眠い。本格的な冬眠期のおとずれを感じる。できればこんなことはもう書きたくない。美味しいごはんだけを食べていたい。「憤り」がふつふつと流れているのを今のところ他に止める手立てがない。

 

横浜トリエンナーレサポーターのリーダー会議のあと、今年最後の横浜の夜となった市原幹也くんを囲んで、麻辣羊鍋。このところ感じている「憤り」について何人かで話をして、いくらか心が慰められた。ほんとにくそつまんねーな、とか言って何もかも投げ出したくなる手前で踏みとどまれるのは、屈託なく話せる友人たちのおかげだと思う。0時閉店のお店は今夜も1時すぎまで開けていてくれた。中国人は愛想が悪い、という偏見を持っている人はまずこの店に行ったらいいと思う。料理は癖があるけどかなり美味しい。

 

市原くんが、「まあでも以前に比べたら敵が見えるようになったよね。ダイダラボッチみたいな怨念の集合体として」とか言っていて、その表現は面白いなと思った。もっともジャーナリズム的にはこういう発想はおそらくアウトで、敵はあくまでも個別に存在しているのだから、それを混同して集合体にしてしまうのは論外で、もっと丁寧な取材と考察による各個撃破が求められるだろう。しかしながらこの世界の現実を捉えるためにはいろんな想像力や回路があっていいし、そうでなければむしろマズいとも感じる今日この頃なのだった。歴史を顧みれば、正攻法とは異なる様々な抜け道が模索されてきたし、それもまた生き延びるための人類の知恵だと考えたい。きっと「たわみ」や「遊び」のようなものがこれから先ますます必要になると思う……とかいう話をしたら、建築学に親しい事務局の上野正也さんが「冗長性は大事ですね」と言った。冗長性はそういえば雑誌「エクス・ポ」のキーワードのひとつでもあった。

 

 

ところで、虚構新聞社主UK氏の深夜のぼやきには親近感を覚える。

http://togetter.com/li/605410

 

言論の世界において寛容さは消滅しつつある。冗長性や余白や遊び心は失われ、弾力性を失った思考はすぐにキレて導火線に火が放たれる。世界が燃えていく。そしてその一方にはシニシズム(冷笑)の底なし沼がひろがっていて、抜け出そうとする人間に冷や水を浴びせ続ける。日本語によるニッポンの言論はかくして島国根性を剥き出しにする。炎上か、冷笑か。どっちにしても快適からはほど遠いし、思考停止に陥っているのは両者ともに変わらない。

 

時代がある方向に極端に走りだそうとする時に、シニシズムはある程度有効にはなる。ただ、マージナルマン(境界人)として大勢を占める危険な流れに逆らうことと、安易なシニシズムに寄り掛かってとにかく流れを停滞させる(萎えさせる)こととは似て非なる行為だ。自分が強くて賢いと錯覚できる戦術に「カウンター」があるけれど、したり顔で誰かの一手を叩きつぶしていけばそれっぽい気にはすぐになれる。場合によってはそれが「批評」だと勘違いすることさえあるだろう。自分は頭が良くてすべてお見通しだ、とか思いながら彼はほとんど何もせずに死んでいくのだ。

 

この動画の4:58あたりから。(※ほんとにつまんないので注意)

 

 

 

 

 

http://instagram.com/p/iJWz3fqspm/

http://instagram.com/p/iKs94jKsvG/