BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131216 サンプル『永い遠足』、星まわり、F/T学生座談会

 

ふと思ったのだが、ある人間が誰かを可愛がり、目をかけたとして、そうされる側もがんばってその期待に応えようとしても、それはしばしば依存状態に陥るのであり、エンドレスな愛と忠誠の確認を行わなければならなくなる。そうなると、少しのあいだ会わなかっただけでも、「あいつは疎遠になった」だの「裏切った」だのという感情が芽生えてきて、不安になり、嫉妬や不信がだんだん膨らんで、結果としてその愛していたはずの人間の首を斬ってしまう、ということは、往々にしてありますよね。

 

だから継続的に活動をしていくためには、不断の愛や忠誠を誓うことによる絆の確認……とかいう依存状態ではなくて、真にリスペクトし合うような関係が必要だと思う。そのためには相手におもねってはいけないし、ちょっとしたサービス精神でさえ時には仇となると心得たほうがいいだろう。

 

わたしは誰の配下にもなりたくないし、誰にも忠誠を誓いたくはない。逆に、誰かの忠誠を受けたいとも思わない。そういう意味では、迂闊に愛したくないし、愛されたいとも思わない(だがもちろん誰かに愛されたいという感情が完全に消えるわけではない)。ともあれ、まずはお互いに一個の人間としてリスペクトし合える関係を築いていければいいし、そこで信頼関係を育むことは十分可能だと思う。というか、信頼ってそういうことだと思う。「あの人はいつも私のことを見てくれてるから」というのもあるだろうけど、それ以上に、何かを感じ合う関係というのがあるはずだし、もしかしたら、そのために(その人間関係の外側に)世界は存在すると言ってもいいのではないか。仮に何ヶ月か、あるいは何年か会わなかったとしても、その信頼関係が簡単に損なわれるとは思わない。一種の腐れ縁というか。

 

こないだも書いたけど、最近「星まわり」ということを感じていて、天体が接近したり離れたりするように、親密になる時期、疎遠になる時期というのは人間関係にはどうしてもある。それぞれの生活があるのだから仕方がないし、変転する世界情勢の中で関係はどうやっても変わっていくものだ。

 

そして少なくともわたしは、ある関係性に名前をつけていたずらに執着し、そこから逸脱しようとするものを排斥して安心を得ようとするよりも、その生じた関係と名づけをかりそめの装いと考えて、今起きている、あるいはこれから起きるであろう星まわりを感受していくことによって、他人との(天体的な?)距離を感じ、そのことによってその他人の存在をリスペクトと共に感じるほうがよっぽど心地良いと思う。そういう関係が倫理的に破綻しているとも思わない。今のところは。……と、言えるようになったのはサンプルの『永い遠足』を観たというのも大きいのでしょう。

 

 

 

わけあって、F/Tについて学生たちが語る座談会(中村みなみ主宰)の二次会に顔を出すために池袋へ。詳しい内容まではまだ聞いてないけども、いろいろな話ができて充実した集まりになったらしい。少し前にもF/Tについて書いたけども、こうやって非公式で自主的な集まりが生まれるというのも、これまでのF/Tが積み重ねてきたものの成果だと思う。