BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131214 悪魔のしるし、ままごと、チェルフィッチュ

 

さすがにそろそろ観劇と関係ないただの平々凡々たる日記が書きたいなあと思いつつ、おそらく年内最後のハシゴ観劇2days in 横浜となったこの週末。まずは自転車でnitehi worksに行って悪魔のしるし『注文の夥しい料理店についての簡潔な報告』。他が売り切れていたのでやむをえずの中流席。高級料理でセレブ気分を味わえる上流席や、ズタ袋を被って「遺書」の朗読をさせられる下流席に比べると、いわゆるふつうの観客席にかなり近い中流席は、いかにも傍観者然としている。最も人間扱いされていないのは、実はこの中流席かもしれない。そこにいるのに、あたかもいないかのように見なされているこの「観客」とは何なのか? このところ宮沢章夫さんがよく引用する寺山修司の言葉がリフレインされてくる。「観客は立ち会いを許された覗き魔である」。

 

とはいえ覗き魔にも役得はある。下流席の人間たちの卑屈で不安を帯びた表情と、上流席の人間たちの優雅で余裕に溢れた表情とのコントラストが恐ろしく見えた。わずか5000円程度の差でここまで人間が変わってしまうとは……。

 

しかし上流だろうが下流だろうが、常識の範囲を超えてはいない。仮に下流席に俳優や芸人や政治家や革命家が紛れ込んで「美味しく食べられる」ために場を盛り上げようなどと小癪なことを考えたとしても、そんな作為はあっという間に「凡庸」の範疇に呑み込まれてしまうだろう。

 

そうしたいっさいの凡庸さを破壊し、もしくは愛で包み込むために、終盤になって危口が「恐怖の大王」と呼ぶものがやってくる。「生き物係」を務めていた下地昭仁(揚重工)の語りが始まるのだ。彼の前ではあらゆる価値判断が肯定され、そのために無効化されてしまう。穏やかな語り口だが、まるでドラクエのラスボスが放つ「凍てつく波動」のように、すべての階級席の観客たちはその属性を剥奪され、ただあるがままの状態にさせられるのだった。おそらくこの下地さんにとっては、昨日も明日も今日と変わらずにただそこにある。12年前に、彼は沖縄からただの飲み会に参加するためにやってきた。帰りの交通費がなくなってしまったので、アルバイトを始めることにした。そのまま12年が経過して今に至っている。テレビは見ない。お風呂にも興味がない。結婚するかどうかという話も、相手がいないのだから考える必要がない。

 

この作品には明確な「終わり」がなく、永遠に続くかとも思われたが、下地さんがタバコを吸いたいと言ってなんとなく流れが途切れたので、その隙に外に出た。

 

 

 

象の鼻テラスに流れてままごと『象はすべてを忘れない』をしばし楽しむ。今日も良い天気で穏やかな時が流れる。土曜日だから人が多いし、シアターゴアも増えてきた模様。新作のスイッチを楽しんだりしてしばしの時を過ごす。象の鼻カフェのスープカレー、初めて食べました。

 

 

 

歩いて数分のKAATにて、チェルフィッチュ『地面と床』初日。不穏なテンションに満ち、ユーモアと皮肉が炸裂する物語。登場人物の中に「100パーセント自分と同じ」と思える人はいないのに、それぞれの主張には共感できる部分が少しずつ含まれている。つまり彼らはわたしとは別人である……だが簡単には切り捨てることのできない他者でもあるのだった。

 

戯曲がそれ自体として力を持っているのは間違いないけども、同時に『現在地』に比べるとこの作品は極めてダンス的とも言えて、目が離せない。字幕の扱い方もとてもクールで斬新だし、あの言語を入れている意味も大きくあると感じる。佐々木幸子のあの喋りはやっぱり只者ではない。なんなんだろうこの人。ほんとに性格悪そうでいいですね。あと今回のテーマである「死者との外交」を象徴するシーンでの安藤真理の動きがしなやかでたいへん美しい……とかとか、サンガツの音楽も含めて様々なシーンに言及したくなるけどまだ初日だし控えることにします。

 

きっと時代がどんどん不穏な方向に進んでいるせいで、だからこそこの舞台に現れる滅びの予感のようなものは絵空事には思えない。いっぽうでこの予感ってただの妄想ということで片付けてよろしいでしょうか?、と問いかけてくる感じもあって、要するに観客たちは挑発されている。踏み絵のような側面がある。これらを観て同時代の空気を確認して「やっぱそうだよね、ああ怖い」と言って溜飲を下げている部分もきっとわたしを含めて観客たちにはあるのだろう。ただしそれは「鏡」として今の自分(たち)の姿が映し出されるから怖い、ということだけではなくて、その外側にいる見えない他者の存在が突きつけられてくるからこそ怖いのだと思う。しかし他者の存在は厄介だ。「私は見ないことにする」と頑なに言っている女にも一分の理がある。彼女には何を差し置いても守りたいものがあるのだから、他のものに構っている余裕なんてない。なのに、見えない他者からの呼びかけが止むことはない。幽霊が見えてしまう。それは良心なのか、なんなのか。そして幽霊も含めて、誰しもが何かに執着していて、たぶんそのせいでこの国とこの言語は滅んでしまう。

 

 

終演後、さる方から「そろそろ外に出てみない?」とある提案をいただいて、聞いた瞬間に「あ、いいかも。そういう時期が来たのかも」と思ったので、たぶんそうさせていただきます。お金と体力を貯めておかなくては。人生を謳歌しつつ闘える準備をしておこう。ほんとにそろそろ恐怖の大王がやってくるかもしれないのだし。少なくとも命を落とす危険性は今より高まっていくだろうから。

 

 

 

再び象の鼻テラスに戻って、ままごとの制作・宮永琢生くんがマスターを務める「スナック象の鼻」へ。さらに中華屋に流れて、ある人物も合流して遅くまで話した。年に何回か、横浜にはこうして密度の濃い顔ぶれが集まる。