BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131206 『石のような水』『地雷戦2.0』『ガネーシャVS.第三帝国』

 

まずは『東京ヘテロトピア』で御徒町のヴェジハーブサーガへ。ラジオでテクストを読んでいたのは相馬千秋で、まさかの駄洒落(ジャイナ教ってなんじゃいな?)に笑ってしまったけども、このお茶目さは店の雰囲気によく合っていた。なんか不思議なお店だったなあ……。

 

 

 

にしすがも創造舎で『石のような水』(作:松田正隆、演出・美術:松本雄吉)。正直、最初の2〜30分はうつらうつらしてしまった。おそらくはこの演出に付いていけなかったのだと思う。ただいたずらにシーンが流れているようにしか思えなくて、どんなに頑張ろうとしても眠気が襲ってきた。さすがに連日の観劇の疲労も出てきたか……

 

……ところが、キスシーンに至って一気に目が覚める。ぴょんぴょんと、二人があの舞台美術を飛び渡っていくところで。その光景はけっして新しいものではなくて、どこかしら古びていて、ある種のノスタルジーを感じさせるようなものだったが、何かそこから物語が動き出すのを感じるのと同時に、この作品世界の中に入り込んでいくとっかかりをようやく見つけたような気がしたのである。

 

そうすると様々な事柄が立体的に見えてきた。まずこの作品が、ゾーン(立ち入り禁止区域)の描き方に関して、実はタルコフスキーの『ストーカー』よりも『惑星ソラリス』に拠っているであろうこと。……つまり、ゾーンの内部での人間の葛藤を描くのではなく、ゾーンという不気味な存在を外側から語ることによって、日常であるはずの人間世界を包み込んでいるある種の奇妙さを炙り出すということ。これはとても怖い……。いったい誰が生きていて、誰が死んでいるのか、分からなくなってくるのだ。ラジオも効果的だった。パーソナリティはいったいどこにいたのか。果たして彼女は生きているのだろうか。そのラジオは「再放送」ではないかという疑惑。そして、そこで語られる「世界は滅ぶ」という予告……。

 

この作品における人間関係は妖艶であり、固定した関係や観念に囚われることなくどこか人間が溶け出している感じがある。そこには、人間が存在すること自体で帯びてしまう哀しみがあるように思った。制度や常識は、こうした哀しみを縮減するために存在しているのかもしれない。だけど時々、人間はそこからはみ出してしまう。

 

戯曲としてこの作品をもう一度読んでみたいと思った。一概に言えることではないけれど、おおよそ様々なものを見渡してみた時に、戯曲は小説に比べて構造的になりがちだと思う。不条理、という交わし方はあるとしても、だいたいにおいて戯曲がどこかしら構造を意識化しやすくなってしまうのは、作家の中にどうしても「組み立てていく」感じが強くあるからではないか。まだ仮説にすぎないし、もう少し丁寧に考えていけば、違う結論が導き出されるかもしれないけども、今日のところはまずそう考えてみよう。しかし、あらためてテクストとして読んでみないとわからない部分もあるけれど、この松田正隆の戯曲は、ただ海のようなもの(それこそソラリス的な?)に潜っていって、時折にゅっと何らかの形になって現れるようなところがある。構造はエロスを殺すのかもしれない。いや、もちろんこの戯曲にも構造がまったくないわけではないだろう。こういう妖艶な戯曲を書ける若手劇作家が現れないものだろうか……。

 

 

 

バスで池袋に移動して、薪伝実験劇団『地雷戦2.0』。ちょっとあまりにも辛くて途中退出したくなったけれど、シアターグリーンの奥のほうに座ってしまったので、なんとか耐えていた。まあ上演時間は1時間だから、そこまでの苦痛ではないだろう……と思いながら、しかしその1時間はとてつもなく長かったのである。地雷をゲームとして描いていること自体が悪いとは思わないが、そのゲームの表現の仕方はちょっと幼稚っぽすぎるのではないだろうか。それがわざとだとしても、センスがなさすぎると感じた。簡単に言えば、すごくダサくて、ちょっと舞台を正視できないくらいだった。

 

舞台面のシートが剥がされて、そこに十字架ができる。原爆らしきものが(影として)降ってくる。玉音放送が引用される……。玉音放送の引用は当日パンフにもうすでに予告的に書かれていたので、いつ来るのかな、と待っていた。それが来ないかぎりはこの劇は終わらないのだから。だから何なのだろう?

 

終わったあと、わざわざ海を渡ってきてくれて申し訳ないと思いながらも、わたしは拍手をしなかった。基本的にはものをつくっている人たちをリスペクトしたいから、こういうことは年に1回あるかないかで、今年は(劇場から命からがら走って逃げ出したあの日以来)2回目だと思う。まあアレは史上最低に酷かったので、そういう嫌悪感があったわけではないけれど。でもなんとなく戦争や政治的なイシューを表象しました、的なものにはわたしは興味を持つことはできない。

 

 

ちょっとこれはね……という感じで4人で話しながら、シアターグリーンの近くの立ち飲み屋で一杯ひっかけ、まあ少し息を吹き返して東口へ抜ける。

 

 

 

そして東京芸術劇場プレイハウスにてバック・トゥ・バック・シアター『ガネーシャVS.第三帝国』。素晴らしかった。非常に感銘を受けた。まだうまく語れる自信がないので、後日あらためて……と思うけども、とりあえず何かしら記述してみる。

 

まず、障害者たちが所属している劇団が、ある劇を演じようとしているのが分かる。それは、象の頭をしたガネーシャが、シヴァ神のもとから盗まれた卍(鍵十字にされている)を取り戻すために、ナチスのところへ乗り込んでいくという物語である。ガネーシャは象の顔をした畸形と見なされて、そのために研究対象として重宝され、アウシュビッツで殺されずに済む(デヴィッド・リンチの『エレファント・マン』を思い出す……)。この物語は劇中劇として進行しているのだが、俳優である障害者たちは一枚岩の仲間ではなく、無能呼ばわりしたりしており、この中にも差別が存在している。そこで強権的な演出家がこの劇中劇の稽古をリードしていくのだが、時折、結局あなたたちは畸形を観に来たのではないかといったような、客席を挑発するかのような発言も見られる(しかしその挑発は、不思議とイヤな感じがしない)。そして演出家がピストルで男を打つシーンが訪れるのだが、背後から撃たれても、その男はどうしても前方に倒れられず、へんてこな動きをしてしまう。演出家がどんなにやらせようとしても無理で、次第に男は自分のできなさに苛立ちを隠さなくなり、「Why you are laughing?!(どうして笑うんだ?!)」と憤る。最初その憤りは、彼のできない様子に失笑している演出家たちに向けられていたと思う。しかしもう一度同じことが繰り返された時、再び彼は言う。「Why you are laughing?!」。その問いは、観客席に向かって投げかけられていたはずだ。

 

そこで、それまでは差別的に彼のことを罵倒していたガネーシャ役の俳優が仲介に入る。「もうやめてやれ。彼は限界だ。休ませてやれ」。しかし演出家の怒りは収まらず、どうしても前に倒れることのできない男に向かってつかみかかっていく。大音量がかかり、それを止めようとする残りのメンバーたち。演出家は彼のことを踏みつけてしまう。……わたしはこの大喧嘩のシーンを見て、なんだかとても笑ってしまった。なんでこれで笑ってしまったんだろう? でもほんとうに可笑しかったのだ。

 

そして最後、劇団員たちの信頼を失い、ぽつんと取り残された演出家はひとりごちるのだった。「私は人間が、他者と何かを交わすような瞬間をつくりたかった。だが失敗した」(セリフは正確ではないです)。すると、それまでほとんど黙って座っているだけだったダウン症の俳優マークが、つかつかと演出家に歩み寄って、抱擁するのだ。なんて清々しいシーンなんだろう……。その瞬間から、しばらく字幕が消える。マークの語りは、あらかじめあるセリフ通りに喋れないので、字幕がつけられない、ということかもしれない。しかしこの瞬間、日本の観客たちは、それまでのように字幕を介した言葉ではなくて、マークの声そのものを聴き、マークの姿そのものを見るだろう。時折、演出家の言葉は字幕が出るので、このやりとりは即興ではなくて、あらかじめ台本通りに予定されたものであることが分かる。言ってみれば、これは演劇という名の茶番なのである。だがそれにもかかわらず、わたしの心はこの茶番にひどく感動させられたのだ。舞台上にいる彼らと何かを交わし合うようなことが、もしかしたらこの時、生まれていたのかもしれない。

 

 

終わったあとは相談(?)も兼ねて不思議なメンバーでマレーチャンで飲んだ。このところどうもエスニックづいている。F/Tの全演目を見終わったこともあって、ちょっと解放感があった。やっぱりガネーシャ素晴らしかったねという話になる。あれを観ているあいだ、カプカプのことを思い出していた。カプカプでもよく大笑いする。それは嘲笑ではない。また近々遊びにいくつもり。