BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131126 ゴーヤル・スジャータ、柴田聡子

 

F/T公募プログラムが始まった。ゴーヤル・スジャータ『ダンシング・ガール』。観劇後に彼女のインタビューを読んで、狙いはそれなりに分かった。インドの伝統舞踊の中に組み込まれているエキゾチシズムを脱構築したい、ということが最大のモチベーションなのだろう。もしもこれが日本舞踊だったら、日本人の観客であるわたしの心が生理的に揺さぶられたりもしたかも。でもそういうことは起こらなかった。

 

コンテンポラリー・ダンスについて。それは既存の伝統的なダンスの型と、そこに内在している価値観を、なんとか脱構築しよう、とする傾向が(全部とは言わないが幾らか)あるのだろう。そこには一定の意味があるのかもしれないが、やはり破壊だけではなくて新しいものを提示してほしい、と思うのも事実で、例えば手塚夏子なら「ダンス」や「近代」といったものを批判的に、実験的な手法で問い続けてきたが、今はなんらかの鉱脈を発見しようともしているように思えるのだ。今はもうそうやって手塚さんがやっているような再創造のフェイズに突入しているのではないか、と感じてしまう。あるいは逆にKENTARO!!的にめっちゃスタイリッシュかつユニークに踊れるとか。

 

 

 

つづいて浅草に移動して、トイレの新しくなったアサヒ・アートスクエアで柴田聡子『たのもしいむすめ』。……想像以上の衝撃。最近感じていた徒労感のようなものの正体が、この「歌」を聴いてはっきり分かった。呪いが解けた感じもする。忘れられない夜になった。

 

例えばある作品を観て、それについて評価をくだす、みたいなことは、仕事として必要な時はやるけど、わたしが考える批評というものはそれとは違って、もっとその上演のあいだに流れている「時間」のようなものに触れたくてやっているのであって、それは別の言い方をすると「歌」に触れる、「歌」を聴く、ということなのだ。

 

帰り際に観客全員に「おみやげ」としてCDとその歌詞が配られる。あとでひらいてみて、ああ、これは戯曲なのだと思った。特に6曲目の27:30のトラックがやばい。これは詩であり、戯曲でもあると思う。イェリネクのテクストが戯曲であるのなら、これも間違いなくそう言えるはず。ちなみにこの観劇日からこれを書いている今に至るまで、つまりは10日間くらい、毎日この「歌」を聴いている。

 

わたしはあんまり音楽のライブに行かない。その理由はいろいろあるけども、ひとつは、ミュージシャンが舞台の上でかっこつける感じがあんまり好きではなく、あの「俺、アーティストだぜ」的なオーラを身に纏う作法に恥ずかしさを感じてしまうからで、しかし柴田聡子の今回の「上演」には、そのような何かを身に纏う感じが全然なかった。彼女はもちろんあの空間で「誰か/何か」を演じていた…………だがとてもヴァルネラブルだった!