BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131105 第12言語演劇スタジオ『多情という名の病』

 

新国立劇場でソン・ギウン作・演出による第12言語演劇スタジオ『多情という名の病』。東京デスロックとの共同制作となった『가모메 カルメギ』のように、1930年代の日帝時代を描くスタイルがソン・ギウンの持ち味なのだとすると、これはかなりの異色作ということになるのだろう。

 

一見、ドキュメンタリー的な再現を装っているようにも見えるこの作品が、どの程度「本当の出来事」を含んでいるのかは、ゴシップ的な邪推以上のものではないと思うので、わたしとしては興味がない。とにかく、これだけの素晴らしいリアリティをもって、タジョン(多情)という名の女性と、それに振り回されるソン・ギウンという名の男性、そしてその周辺のポリアモリー的な恋愛模様が描かれているのは確かなことであり、それでいいと思う。

 

現代の若者の複雑な恋愛事情を描く演劇作品には、なぜか日本ではほとんどお目にかからない。『東京ラブストーリー』以降のトレンディドラマの流行で、90年代に、東京を中心とするラブストーリーが量産されてきた。そうした物語のベタさを忌避する心が、日本の先鋭的な演劇作家たちの創作意欲を、恋愛描写から遠ざけているのかもしれない。あるいは作家たちのマジメさが、その不道徳な装いに反発してしまうのかしら。ただ日本の作家がつくった恋愛作品を日本で観たいかというと、そうでもないのはなぜか。……とかいろいろ考える。

 

劇中に登場する「ソン・ギウン」というキャラクターにしても、魔性の女にも思える「タジョン」にしても、それぞれ2人の俳優が演じているので、ブレや矛盾を孕んでいる。人間はそれぞれ一個の確定した人格(性格)を保持している、というのが近代文学の基本的な前提にあるとしたら、『多情という名の病』はキャラクターを確定せず、ブレたまま舞台にあげてしまう。それが「現実/虚構」の境界の不明瞭さとも相俟って、果たしてタジョンという女がどんな人物なのか。良い女なのか、ただの悪女なのか。そもそも本当に実在しているのか。いったいこの物語は誰が何のために語ろうとしているのか。わからなくなる。

 

確かなものが何ひとつない、という状態で、それでも観ていて響くものがあるのは、やはりこの劇の中に何かしらの「真実」を感じるからなのだろう。時折映像として挿入される韓国各地のロケーションや、タンゴという(様式がありながらも、やはりエロティックな秘密を持った)モチーフも効いていた。この作品を観てから、これを書いている今日(13日)まで、1週間以上が経過しているのだが、未だに「恋愛って何なの?」……などと今さらなことを途方に暮れながら考えてしまうし、それは「誰とどこでどうやって生きるか?」という『演劇最強論』のテーマのひとつとも通底しているように思う。恋は避けては通れない。

 

 

ソン・ギウンの別の作品もまた観てみたくなり、ぜひ日本にもちょくちょく来ていただきたいと思う。ちなみに『シンポジウム』で共演させていただいたマ・ドゥヨンも自称「インターナショナル俳優」として登場し、その道化ぶりで大活躍。